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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 イザヤ書32章

聖書日課 イザヤ書32章(新共同訳 旧約pp.1111-1112)

 32章は、いわゆるメシア預言である。メシアの来臨によって最終的に「正義」「公平」があまねく行き渡る正しい社会が築かれるという希望のメッセージである。

「見よ、正義によって/一人の王が統治し/高官たちは、公平をもって支配する。彼らはそれぞれ/風を遮り、雨を避ける所のように/また、水のない地を流れる水路のように/乾ききった地の大きな岩陰のようになる。見る者の目は曇らされず/聞く者の耳は良く聞き分ける。軽率な心も知ることを学び/どもる舌も速やかに語る。もはや、愚かな者が高貴な人とは呼ばれず/ならず者が貴い人と言われることもない」(1~5節)。

 ところが、それとは対照的に9~14節では、繁栄の中で安逸を貪る人々への警告が述べられている。

「憂いなき女たちよ、起きて、わが声を聞け。安んじている娘たちよ/わが言葉に耳を傾けよ。安んじている女たちよ/一年余りの時を経て/お前たちは慌てふためく。ぶどうの収穫が無に帰し/取り入れの時が来ないからだ。憂いなき女たちはおののく/安んじている女たちは慌てふためく。衣を脱ぎ、裸になって/腰に粗布をまとえ」(9~11節)。

 ここで、「憂いなき女たち」「安んじている女たち」とは、ユダの民を指している。主なる神が愛をもって選び、約束の地を与えて祝福と繁栄をもたらされた神の民は、与えられた繁栄の上にあぐらをかき、主なる神を求めることも従うこともしなくなってしまった。そのため、「ぶどうの収穫が無に帰し、取り入れの時が来ない」と言われている。それ故、

「宮殿は捨てられ、町のにぎわいはうせ/見張りの塔のある砦の丘は/とこしえに裸の山となり/野ろばが喜び/家畜の群れが草をはむ所となる」(14節)。

 このように、繁栄の中で安逸を貪る人間の行き着く先は堕落と滅亡である。しかし、裁きの後、悔い改めて主なる神に立ち帰った人々に、主は再び祝福を回復して下さることを忘れてはならない。

「ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である」(15~17節)。

「正義」「平和」、そして「安らかな信頼」、それは「天から注がれる」主なる神の「霊」の働きによる祝福である。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と慈しみに包み、御前に引き出していただいたことを心から感謝致します。

 主よ、私の中には「平和」や平穏、「信頼」をもたらすような義はありません。罪とごまかし、自己憐憫の塊になってしまう者を憐れみ、お赦し下さい。

 主よ、御子イエス・キリストの十字架の血潮こそ、私の罪を洗い清め、このような者を神の子として下さる、絶対的な恵みです。御子の血潮によって私はあなたとの間に「平和」をいただきました。

 主よ、あなたの「平和」を更にこの小さな者に満たし、清め、「平和」を造るための小さな道具としてお用いいただけるなら幸いに思います。

 どうか、この私から悪い所を取り除き、あなたが用い易い者として造り変えて下さいますよう、お願い致します。

 今日もあなたの子供達の上に、御子の十字架の血による義を注ぎ、「平和」を満たし、生かして下さいますよう、心からお願い致します。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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