聖書日課 イザヤ書10章(新共同訳 旧約pp.1075-1078)
10章には、紀元前721年にイスラエル王国を滅ぼしたアッシリアへの預言の言葉が記されている。「斧」と「のこぎり」はアッシリアを、「それを振るう者」と「使う者」は主なる神を指している。
「斧がそれを振るう者に対して自分を誇り/のこぎりがそれを使う者に向かって/高ぶることができるだろうか。それは、鞭が自分を振り上げる者を動かし/杖が木でない者を持ち上げようとするに等しい。それゆえ、万軍の主なる神は/太った者の中に衰弱を送り/主の栄光の下に炎を燃え上がらせ/火のように燃えさせられる」(15~16節)。
この時、アッシリアは世界の覇者となっていた。その破竹の勢いは止まるところを知らず、瞬く間に諸国を滅ぼし尽くしていった。しかし、全ては主なる神の計画によってなされたことであるのを、アッシリアは知らなかった。彼らは自分達の力を誇り、驕り高ぶってこう言い放った。
「なぜならアッシリアの王は言った。『自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った。わたしは諸民族の境を取り払い/彼らの蓄えた物を略奪し/力ある者と共に住民たちを引きずり落とした』」(13節)。
この驕りの故に、今度はアッシリアに裁きの手が下されることになると主なる神は言われた。
「主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる」(12節)。
「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊」とあるように(箴言16章18節)、たとえ主に用いられた器であっても、「驕り」高ぶる者は必ず裁きを受けることになる。それがどんなに人の目には強力に見えたとしても、主なる神の裁きの手は必ず下される。
「主は不遜な者を嘲り/へりくだる人に恵みを賜る」御方だからである(箴言3章34節)。これは歴史の中で明らかに示されている真理である。
「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる」(イザヤ書57章15節)。
西原新生バプテスト教会
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