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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 イザヤ書5章

聖書日課 イザヤ書5章(新共同訳 旧約pp.1067-1069)

 5章には「ぶどう畑の歌」と呼ばれる、イザヤ書特有の歌がある(1~7節)。「愛する者」というのは主なる神を指しており、「ぶどう畑」というのはイスラエルのことである。一説によると、実際のぶどうの収穫の時期に、イザヤが人々の前で歌った歌ではないかとも言われている。

「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」(1~4節)。

「愛する者」は、「ぶどう畑」「良いぶどうが実る」のを期待して世話をした。しかし、「実ったのは酸っぱいぶどうであった」。ここには、期待に背かれた主なる神の嘆きと怒りが綴られている。

イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)」(7節)。

 更に、8節以降では、「災いだ」という嘆きの言葉で始まる一連の証言によって富める者の横暴さが暴かれている。彼らは、「家」「畑」「独り占めにし」(8節)、「むなしい」罪にまみれ(18節)、「善を悪」とし、「光を闇とし」(20節)、「うぬぼれて」自分を「知者」とし(21節)、「朝早くから濃い酒をあお」っていた(11節、22節)。「それゆえ」と、イザヤは罪と反逆の結果を宣告する。

「それゆえ、わたしの民はなすすべも/知らぬまま捕らわれて行く。貴族らも飢え、群衆は渇きで干上がる。それゆえ、陰府は喉を広げ/その口をどこまでも開く。高貴な者も群衆も/騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む」(13~14節)。

 主なる神に愛されて植えられたぶどうの木だったのに、イスラエルはその愛のもとに留まろうとせず、反逆を繰り返して罪を積み重ねていった。「ぶどう畑の歌」は、そのような彼らの罪に対する裁きの宣告であると共に、それでもなお、彼らを引き戻そうとする主なる神の警告のメッセージでもある。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と恵みの中、赦されて御前に祈れることを心から感謝致します。

 主よ、私達は罪を犯しました。善悪を自分の都合と欲望に合わせて左右しようとしました。今もそのような性悪な部分を抱えている、罪の現実をそのままあなたに告白致します。あなたのご判断の前に全てをお委ねし、ひれ伏します。

 主よ、もうあなたの前に何も申し開きすることもありません。ただ、あなたが「来い」と仰っている。「十字架の血潮で清めたから」と言って下さっている。だから、御前に行くことが出来ます。

 主よ、もう何も言わず、ただあなたの御前に行きます。あなたが良いと思われるように、この身になさって下さい。

 どうか尊いあなたの子供の上に、あなたの最善を、あなたの恵みを注いで、今日も、そして永遠に生かして下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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