聖書日課 コヘレトの言葉6章(新共同訳 旧約pp.1040-1041)
「幸福とは何か」。これは、歴史を超え、民族を超えて、人類がその答えを探し続けてきた問いである。問い続けてきたということは、決定的な答えがまだ見つかっていないことを意味する。或いは、一人一人が自分の「幸福」を見出す必要があるというふうにも考えられる。いずれにせよ、ここでコヘレトが問題としているのは、生よりも死、生きている間のことより、寧ろ死後のことのようである。
「たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから」(6節)。
「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない」(12節)。
人は誰でも死にゆく存在である。長命であろうが短命であろうが、裕福であろうか貧乏であろうが、有名であろうが無名であろうが、結局は皆死んでいく。そして、死んだ後の時間の方が遥かに長い。というより、寧ろ無限と言った方がよいだろう。それ故、死の問題が解決されない限り、真の意味で「幸福」は有り得ない。
使徒パウロは、このような問題に頭を悩ませる中で、次のような答えを見出した。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。…従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ローマの信徒への手紙7章24節、8章1~2節)。
「キリスト・イエスに結ばれ」ること、そこに死の解決がある。イエス・キリストを信じるなら、私達は主と共に、主の愛と恵みの中に永遠に生きる者とされる。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリントの信徒への手紙一15章54~55節)。
西原新生バプテスト教会
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