ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

祈祷会奨励 2023年8月28日

祈祷会奨励 2023年8月28日
コヘレトの言葉5章9~19節(新共同訳 旧約pp.1039-1040)
「神と富」
讃美歌: 298「やすかれ、わがこころよ」
    520「しずけき河のきしべを」
    第二編192「シャロンの花」

「彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから」(19節)。
 私達は、自分の過去を振り返り、「あの時〇〇していれば…」と悔やんだり、「あの時〇〇になっていたら…」と嘆いたりしてしまうことがある。しかし、「彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない」「彼」はどういう人か。「神から富や財宝をいただいた人」である(18節)。そして、コヘレトが言うように、「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない」ということを分かっている人である(14節)。
 私達は「裸」で生まれ、「裸」で主なる神のもとへ帰って行く。「何ひとつ持」たずに生まれ、「何ひとつ持」たずに死んでいく。私達は、この世の富を1円たりとも、天に持って行くことは出来ない。富は、地上で生きている間に上手く使うべきものである。
「財産が増せば、それを食らう者も増す。持ち主は眺めているばかりで、何の得もない。働く者の眠りは快い/満腹していても、飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている」(10~12節)。
 主なる神は、人が富の奴隷になることを喜ばれない。富を愛し、富に仕える人は、富に支配され、どれだけ富を得ても、「収益に満足しない」(9節)。私達の真の主人は主なる神である。主なる神は、私達が造られた存在としての「分をわきまえ」ることを願っておられる。コヘレトは言う。
「神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ」(18節)。
「分をわきまえ」るというのは、禁欲的に生きることではない。主から与えられたものを「享受し」「その労苦の結果を楽しむ」ことである。主なる神を愛し、主なる神に仕える人は、「労苦した結果のすべて」「神の賜物」として受けとめ、「満足する」ことが出来る。
「見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ」(17節)。
 イエス・キリスト「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われた(マタイによる福音書6章24節)。
 富を主人として働く労苦は空しい。しかし、真の神を主人として生きるなら、人生の「労苦」には「喜び」がある。主なる神こそ、御心のままに与え、取り去られる権威のある方であり、私達の心に「喜び」を与えて下さることを知っているからである。「神に与えられた短い人生の日々」において、主なる神を愛し、富に支配されない人は「幸福」である。