聖書日課 箴言20章(新共同訳 旧約pp.1016-1017)
20章にも、日常生活における人生訓が沢山記されている。しかし、これらを単なる処世訓としてではなく、主なる神との関わりにおいて理解することが大切である。
「酒は不遜、強い酒は騒ぎ。酔う者が知恵を得ることはない」(1節)。
昔も今も「酒」に溺れる人間は多い。科学は進歩しても、人間の本質は変わっていない。私達は、「酒」に「酔う」ことによってではなく、聖霊に満たされて歩むことを常に求めたいものである。
「怠け者は冬になっても耕さず/刈り入れ時に求めるが何もない」(4節)。
礼拝も祈りも、都合の良い時だけでなく、状況が良くない時も、気分が乗らない時も続けていくことによって、主なる神の御業を見ることが出来るのではないか。時が良くても悪くても、私達は主に祈り、主を礼拝し続ける者でありたいと思う。
「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた」(12節)。
「耳」や「目」は、決して人のあら捜しをしたり、人の欠点を見つけるために造られているのではない。「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた」。主が喜ばれることを「聞く耳」、主が喜ばれることを「見る目」でありたい。
「悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる」(22節)。
やられたらやり返す。それがこの世の現実かも知れない。しかし、更に確かな現実は、主なる神の世界である。目に「見えるもの」は過ぎ去るが、「目に見えないもの」は永遠である。私達の歩みを確かなものにするのは主なる神である。だから、主に望みを置き、主の救いを待ち望み続けよう。
「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか」(24節)。
「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(ローマの信徒への手紙8章24~25節)。
西原新生バプテスト教会
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