聖書日課 箴言17章(新共同訳 旧約pp.1012-1014)
本章には、心のあり方の大切さを教えてくれる節が散りばめられている。
「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば/いけにえの肉で家を満たして争うよりよい」(1節)。
心を「平安」に保つことは、その人だけではなく、「家」全体に影響を及ぼす。心が落ち着かなければ、家全体も落ち着かなくなる。私達は互いに影響を及ぼし合いながら存在していることを忘れてはならない。そういう意味では、個人主義は有り得ない。
私達一人一人の心が「平安」になることによって他の人の心も「平安」になっていく。そのような嬉しい連鎖反応を日々体験したいものである。
「喜びを抱く心はからだを養うが/霊が沈みこんでいると骨まで枯れる」(22節)。
「心」と「からだ」の相関関係は実に深いものである。「喜びを抱く心」は「からだ」に元気をもたらし、反対に、「沈みこんでいる」心は「骨まで枯」らす。「からだ」に良いことをすると共に、「心」の「喜び」と平安を保つのに良いことを心がけることも大切である。
では、そのために必要なことは何だろうか。
「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主」(3節)。
主なる神は私達の「心」を見ておられる。そして、「金」や「銀」を「炉」で精錬するように、私達の心を精錬して、「金」や「銀」よりも純粋で価値あるものにして下さる。それ故、私達がなすべきことの第一は、主なる神に心を向けることである。
「分別のある人は顔を知恵に向け/愚か者は目を地の果てに向ける」(24節)。
「知恵」とは「主を畏れること」である(1章7節)。いつも主なる神に「顔を」「向け」、心を向けて、主なる神を畏れ敬い、主なる神に注目しながら生きること、「知恵」と「分別」はそこから生まれる。一方、「愚か者」は主なる神に目を向けず、この地上に目を向ける。そこには、焦りと争い、不安と恐れがあるだけである。
私達の心がいつも主なる神に向けられ、主の「平安」と「喜び」に満たされるように。
西原新生バプテスト教会
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