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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

主日礼拝宣教 2023年8月6日

主日礼拝宣教 2023年8月6日
創世記4章1~12節(新共同訳 旧約pp.5-6)
「カインの罪」

 今日私達は創世記4章のカインとアベルに関する記事を拝読した。ここには人の死の始め、主なる神を否定する社会の始め、そして信仰復興(リバイバル)の始めが書かれている。

1. アベルの献げ物

 アダムとエバエデンの園を去った後、二人の男の子が相次いで生まれた。兄のカインは「土の耕す者」となり、弟のアベル「羊を飼う者」となった。3~4節に「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た」とある。聖書は、カインやアベルの成長の様子や、アダム一家の生活のことなど、何一つ書かないで、いきなり二人がした献げ物のことを書いている。それは、聖書が人を、主なる神との関係で描いているからである。聖書には様々な人物が登場するが、その人がどんなに有能であったか、どのような偉大なことをしたかではなく、どれほど主なる神に近かったか、主なる神に信頼したかを記している。主なる神が人に求められるのは、何よりも信仰だからである。献げ物をして礼拝するという信仰の行為に、その人の生きる姿勢が表れる。それで、聖書はここでカインとアベルの献げ物のことを書いている。
 カインは収穫した作物の中から献げ物を持って来た。アベルは羊の初子を持って来た。主なる神はカインの献げ物よりもアベルの献げ物を喜ばれた。どうしてだろうか。主なる神への献げ物は動物でなければならず、穀物ではいけないのか。そうではない。主なる神が後にイスラエルの人々に与えた献げ物の規定の多くは動物の献げ物に関するものだが、穀物の献げ物のことも書かれている。これらの献げ物は祭壇の上で焼かれ、その煙が天に上っていく時、人々は祈りを献げた。祈りが煙と共に天に上り、主なる神に届くことを願ったのである。主なる神は、献げ物だけでなく、そこに込められた信仰と祈りを喜ばれた。
 アベルの献げ物が受け入れられたのは、そこに彼の信仰と祈りが込められていたからである。4節にアベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た」とあるように、彼は、どの羊でもいいと、適当に献げ物を選んだわけではない。注意深く、最も良いものを選んだ。新改訳は、献げ物を「持って来た」というところに、「それも自分自身で」という言葉を補っている。アベルは自ら進んで献げ物を持って来たのである。献げ物をして、主なる神に感謝と祈りを献げることは、アダムが子供達に教えたことだろう。アベルは、羊の群れを祝福し、増やして下さった主なる神への感謝に溢れて、進んで献げ物を持って来た。それで「主はアベルとその献げ物に目を留められた」。ここに、アベルとその献げ物」という順序で書かれているように、主なる神はまずその人の心を御覧になる。それから献げ物を御覧になる。
「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです」(ヘブライ人への手紙11章4節)。
 アベルの献げ物が主なる神に喜ばれたのは、アベルがそのことを「信仰によって」したからである。スポーツでは、競技で良い成績を収めなければ賞を得られない。審査員はその人の能力を見るが人柄は見ない。しかし、主なる神は違う。私達がした何かではなく、それをした私達自身を御覧になる。私達のしたことがどんなに小さいものであったとしても、真心から主なる神のためにしたことであれば、主なる神はそれに報いて下さる。この世のどんなものも決して及ぶことのない栄誉で報いて下さる。

2. カインの罪

 カインは献げ物を吟味することなく持って来た。また、それがアダム一家のしきたりだからということで、義務的に、心のこもらない形ばかりの儀式を行っただけだった。だから、献げ物をしてもカインの心には満たされるものがなく、彼は暗い顔をしたままであった。ところが、アベルの顔には喜びが溢れていた。カインはそれを見て、主なる神がアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」ことを悟ったのだろう(4~5節)。
 そうであるなら、カインはどうすべきだったか。主なる神への誠実な心と信仰がなかったことを悔い改めて、信仰を祈り求めるべきだった。アベルの模範に見習って、次の礼拝の時に備えればよかった。ところが、「カインは激しく怒って顔を伏せた」(5節)。「顔を伏せ」るというのは、本来は悔い改めの姿勢である。しかし、カインが「顔を伏せた」のは、自分の暗い顔を隠し、主なる神から目を逸らすためでしかなかった。そして、カインは自分の怒りや憤りを弟のアベルに向け、アベル「襲って殺し」てしまった(5節)。
 この時、人類は初めて人の死を体験した。主なる神はアダムに善悪の知識の木の果実を「食べると必ず死んでしまう」と言われたが(2章17節)、その死を自分の子供がその弟を殺すという出来事の中で見ることになった。カインがアベルを殺して逃亡したのを知った時、アダムもエバも、最初は呆然とし、それから深い悲しみを長い時間味わったことだろう。
 普通は子供が親を看取る。その場合でも、悲しく、寂しく、心の痛みが残るが、親が子供の死を見ることほど辛いものはない。
 自分の子が犯罪の加害者となった場合には、親はもっと苦しむことだろう。アダムは、自分の子の一人が犯罪の加害者になり、もう一人が被害者になるという二重の苦しみを受けた。そして、その苦しみの中で「罪が支払う報酬は死」であるという厳粛な事実を目の当たりにした(ローマの信徒への手紙6章23節)。この出来事は人類の悲劇の始めである。そしてそれは今に至るまで続いている。

3. セトの子孫

 さて、カインは逃亡してエデンの東、ノド(さすらい)の地に住」み(16節)、彼の子孫はその地で増えていった。16節に「カインは主の前を去り」とあるように、カインはアダム一家だけでなく、主なる神からも遠く離れ去った。こうして、主なる神を信じ、礼拝することをしない者の群れが始まった。
 19節にカインの子孫のレメクのことが書かれている。「レメクは二人の妻をめとった」とあるように、ここでは、主なる神が定めた一夫一婦制が崩れている。レメクは二人の妻にこう言っている。
「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍」(23~24節)。
 古代の法律に「目には目を、歯には歯を」というものがある。これは報復を勧めているものだと誤解されている。しかし、実際は逆である。自分が受けた被害以上の過度な報復を禁じている。ところが、レメクは「わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す」と言って憚らなかった。
「カインのための復讐が七倍なら」というのは、カインが逃亡する時、主なる神がカインをも憐れんで、「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう」と言って、カインの命を守られたことに基づいている(15節)。ところが、レメクは「カインには七倍かもしれないが、レメクには七十七倍だ」と言って、暴力による社会の支配を正当化している。主なる神を否定する社会が行き着くところは、人々を暴力で圧迫して従わせる社会である。赦し合い、与え合う社会ではなく、傷つけ合い、奪い合う社会となっていく。
 残念なことに、今、そうした社会が次々と生まれている。私達は、この日本、この沖縄が、カインが作り、レメクが支配したノドのような主なる神を否定する国、地域となることがないよう祈りたいと思う。
 私達がそう祈ることが出来る希望の言葉がある。
「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」(25~26節)。
 アダム夫妻に三番目の男の子が生まれた。セトは成人して子供を生み、その子をエノシュと名付けた。聖書は「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」と言っている。「主の御名を呼」ぶというのは、「主の御名によって祈る」ことである。主に向かっての篤い祈りを連想させる言葉である。
 カインの子孫が主なる神から離れていった一方で、セトの子孫が主なる神に近づいていった。アダム一家に信仰のリバイバルが起こったと言ってよいだろう。主なる神は、いつの時代にも、主なる神を信じる人々を残していて下さる。どんなに多くの人が主なる神から離れていったとしても、主なる神はなお、主なる神から離れることのない人を残していて下さる。その人が地の塩となって世界を完全な堕落から救い、世の光となって人々に主なる神を示すのである。
 創世記4章はカインがアベルを殺すという恐ろしい出来事で始まったが、殺されたアベルの信仰は無駄にならず、セトに引き継がれた。ヘブライ人への手紙11章4節が、アベルについて、アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」と述べているように、信仰者は世を去っても、その信仰は世を去ることなく、後の時代までも、主なる神を証しし、人々を励ます。このアベルの信仰から学び、私達も主の御名を呼び求める者の一人になりたいと思う。

祈り
 愛する天のお父様、アダムによって罪が世界に入り、死が入ってきましたが、イエス・キリストは、私達を罪から救い、永遠の命を与えて下さる第二のアダムとなって下さいました。イエス・キリストを信じ、世から救われ、御国に入る人が一人でも多く起こされますように。私達もアベルのように信仰によって善きものを献げ、後の世までも信仰を証しする者となれますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。