「わが子」に対して父が諭しを与える形で主の教訓が語られている。ここで特徴的なのは、「~せよ。そうすれば~」というパターンが繰り返されていることである。
「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し/平和が与えられるであろう。慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び/心の中の板に書き記すがよい。そうすれば、神と人の目に/好意を得、成功するであろう。心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず/常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり/あなたの骨は潤されるであろう。それぞれの収穫物の初物をささげ/豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし/搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる」(1~12節)。
しかし、これは単に私達が条件を満たせば、主なる神が報いとして良いものを下さるという教えではない。それでは、聖書の教えは因果応報の教えと余り変わらなくなってしまう。聖書の教えの原則は、〈恵み〉にある。主なる神は、本来受けるに値しない者に豊かに与えて下さる恵みの主である。
そうであるとすれば、これらの教えは、条件と報酬ではなく、恵みによる祝福とそれに対する感謝の応答ということになる。主なる神は、私達に祝福を与えたくて与えたくてしようがないほどに、私達を愛して下さっている。そして、そのために愛する御子の命を身代わりにしてもよいとされた。
そのような主なる神を知り、その恵みと愛に満たされる時、私達は進んで主の教えを心に納め、喜びをもって主に信頼し、自分の分別に頼らずに、主を畏れ、敬い、従う者とされていく。全て主なる神の恵みである。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな恵みと慈しみに守られ、包まれて、御前に祈りを献げられることを心から感謝致します。
主よ、今日私達が歩く一歩一歩の道を守り、導いて下さい。あなたを思い出しながら、あなたに語りかけながら、あなたの言葉を思い出しながら生活出来るよう、助けて下さい。
決して楽しいことばかりではなく、苦しいことや、不安なこと、楽しくないこともあると思います。しかし、そのような中で、あなたが共に歩いて下さる喜びと希望に私達を満たし、誤りのない、真直ぐな安全な道を歩くことが出来るよう、お導き下さい。
痛みや苦しみの中にある方を支え、あなたの光と希望を注いで下さい。欲望の中に落ち込んでいる人がいるなら、あなたが手を取ってそこから引き上げ、あなたの道を歩くことが出来るよう、助けて下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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