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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 詩編144編

聖書日課 詩編144編(新共同訳 旧約pp.984-985)

 第144編は、「異邦人」に取り囲まれ、「欺き」と中傷の言葉を浴びせられて苦しむ詩人が、「逃れ場」である主なる神に向かって祈る詩である。

「【ダビデの詩。】主をたたえよ、わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を/わたしの支え、わたしの砦、砦の塔/わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ/諸国の民をわたしに服従させてくださる方を」(1~2節)。

「主よ、天を傾けて降り/山々に触れ、これに煙を上げさせてください。飛び交う稲妻/うなりを上げる矢を放ってください。高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち/大水から、異邦人の手から助け出してください。彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です」(5~8節)。

 祈りの中で特に注目したいのは、次の言葉である。

「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影」(3~4節)。

 詩人は、主なる神の顧みと助けを当然のこととして考えてはいなかった。何故主なる神は人間のようなちっぽけな存在に目を留めて下さるのか、また、どうして主なる神は「消え去る影」のようにはかない人間に「親しまれ」「思いやってくださる」のかと、御前に問いかけている。これは、主なる神に対する詩人の信仰と謙遜さの表れと言えるだろう。

 詩人は、主なる神が自分の「砦」であり、「盾」となって下さる御方であることを固く信じていた。それ故、どんなに敵の攻撃が激しくても、決して諦めないで「避けどころ」である主なる神に向かって祈り続けることが出来た。

 同時に、詩人は、主なる神の御前で謙ることを知っていた。それは、何よりも自分の弱さと小ささを弁えていたからであったに違いない。そして、そのような自覚が、詩人をより一層主なる神に依り頼むようにさせていた。

 信仰と謙遜は、こうして一つに結ばれる。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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