驕り高ぶりは、いつの時代も人の人生を狂わせる大きな原因である。それは自分の力を過大評価するところから生まれる過ちであり罪である。一方、人間には未来に向かっての志や夢が大切で、それがなければ、目先の楽しみや利益に振り回されるような人生となってしまう。
では、私達の人生に目標を与える志や夢と、人生を狂わせる驕り高ぶりの違いを、どのように見分ければよいのか。その鍵が第131編にある。
「【都に上る歌。ダビデの詩。】主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを/わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように/母の胸にいる幼子のようにします。イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」(1~3節)。
「母の胸にいる幼子」は、平安に包まれている。そのように、主なる神の御心の中にいる時、私達の心は平安に包まれる。その平安の中に生きることが驕り高ぶりに陥らないために大切である。何故なら、驕り高ぶりは、私達が主を忘れることから起こってくるからである。
それ故、詩人はこう勧めた。
「イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」。
「主を待ち望」むこと、それは主に期待して、御前に謙ることである。その時、主は私達の心を平安で満たし、「志」を与えて「事を行なわせてくださる」。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(フィリピの信徒への手紙2章13節、新改訳)。
西原新生バプテスト教会
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