詩人はこの時、罪の故に裁かれ、「深い淵の底」に陥っていた(1節)。そして、そこから主の「赦し」と「贖い」を待ち望んでいた。
「【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです」(1~4節)。
私達は、赦すことを敗北或いは妥協のように思ってはいないだろうか。それ故、相手の罪に目を留めて決して離そうとしない。しかし、事実はその逆である。主なる神は、人間の罪を赦すことで、却って人から「畏れ敬」われると言われる。
本来赦されないものが赦される。そこに、畏れと敬意が湧き上がる源がある。そこには、相手との対立を超える、全てを包み込む愛がある。だからこそ、詩人はどこまでも「主に望みをおき」、「待ち望」んだ。
「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして」(5~6節)。
そして、確信をもってこう勧めた。
「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる」(7~8節)。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの愛と慈しみに包まれ、御前に引き出していただいたこと、祈りを献げられることを、心から感謝致します。
主よ、あなたはこのような者を赦して下さいました。自分の思いを第一とし、それによって周囲の人を傷つけ、卑しめ、高慢な思いに満たされていた私を、あなたは、忍耐されるだけでなく、愛し、慈しんで下さいました。そして、私が自分の罪のために倒れ、絶望していた時、あなたはやって来て、私を引き起こし、抱きしめ、包んで下さいました。
あなたの愛によって私は生かされました。
主よ、私はどのように生きるべきでしょうか。あなたが私にさせようとしておられることは何でしょうか。あなたの御前に身を屈め、あなたが愛するお一人お一人に仕えていくことが出来すよう、この心を毎日新しくして下さい。
あなたの尊い子供お一人お一人を今日も支えて下さい。あなたの命の息吹によって生かし、病んでいるところ、痛んでいるところにあなたの御手を置いて癒して下さい。お一人お一人と今日も共にいて、助けて下さいますようお願い致します。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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