かつて詩人は、敵が「仕掛け」た罠にはまり、危うく「敵の餌食」にされるような目に遭った。しかし、危機一髪のところで、「網は破られ」、「逃れ出」ることが出来た。それは主が彼の「味方」となって下さったからである。
「【都に上る歌。ダビデの詩。】イスラエルよ、言え。『主がわたしたちの味方でなかったなら/主がわたしたちの味方でなかったなら/わたしたちに逆らう者が立ったとき/そのとき、わたしたちは生きながら/敵意の炎に呑み込まれていたであろう。そのとき、大水がわたしたちを押し流し/激流がわたしたちを越えて行ったであろう。そのとき、わたしたちを越えて行ったであろう/驕り高ぶる大水が。』主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある」(1~8節)。
実に、主の助けは、危機一髪のところでの助けであり守りである。人間的には「もう駄目だ! 万事休す!」とうなだれ諦めてしまうような状況の中で、主は尚も救い出して下さる御方である。それ故詩人は大胆にこう問いかけている。
「イスラエルよ、言え。『主がわたしたちの味方でなかったなら』」。
考えただけでも、怖くなってくる。しかし、大丈夫!
「主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった」。
このように、主なる神は必ず、主を信頼する者と共にいて、その人を危機から救い出し、豊かな恵みによって満たして下さる方である。使徒パウロは、こういう信仰の確信を次のように宣言している。
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマの信徒への手紙8章31~32節)。
西原新生バプテスト教会
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