聖書日課 詩編123編(新共同訳 旧約pp.969-970)
「都に上る歌」の4番目となる第123編は、短いながらも、緊迫した状況における信仰者の姿を見事に描き出している。
「わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあまりにも飽かされています」(3~4節)。
この箇所は、新改訳では「私たちはさげすみで、もういっぱいです」、口語訳では「われらに侮りが満ちあふれています」と訳されている。この時、詩人は「平然と生きる者らの嘲笑」と「傲然と生きる者らの侮り」で一杯の状況の中に置かれていた。
しかし、詩人は決してその状況に押し潰されてはいなかった。それはこの詩人が、「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます/天にいます方よ」と、主なる神に向かって「目を上げ」ることを知っていたからである(1節)。
〈信じて〉〈仰ぐ〉こと、それが信仰である。私達は、目に見える状況によって、縛られたり振り回されたりすることが何と多いことだろう。それは、目には見えないが確かにそこにおられる主なる神が見えていないし、見ようともしていない、ということである。信仰とは、目には見ることの出来ない主なる神を信じて仰ぎ見ることである。
「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます」(2節)。
主人を恐れ敬う僕が、主人の一挙手一投足に注意を向けて仕えるように、信仰者は、主なる神を畏れ敬い、主なる神に「目を注ぎ」、主なる神の「憐れみ」と助けを「待ち」望む。このように、信仰とは、目には見えない主なる神を信じて仰ぎ見ることである。
「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます/天にいます方よ」。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス