ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 マタイによる福音書23章

聖書日課 マタイによる福音書23章(新共同訳 新約pp.45-46)

 23章には、イエス・キリストが律法学者やファリサイ派の人々を非難した言葉が沢山記されている。まず1~12節で、イエス・キリストは群衆と弟子達に、律法学者やファリサイ派の人々の間違いについて警告し、13節以降では、直接彼らに対し、彼らが陥っていた罪と悪を激しい口調で指摘している。

 律法学者やファリサイ派の間違いの一つは、「言うだけで、実行しない」(3節)という言行不一致にあった。彼らは「モーセの座に着いている」(2節)と自認して、律法を教えていたが、自分自身はそれを実行していなかった。それは、彼らが律法の本質を見失って形式にばかり拘っていたからである。しかも彼らは、律法にない多くの言い伝えを付け加えて、それを人々に守るよう要求し、背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本貸そうともしなかった(4節)。これは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11章28節)と言われたイエス・キリストとは大違いの姿だった。

 また、彼らの過ちは、その形式化した信仰にあった。「そのすることは、すべて人に見せるためである」とイエス・キリストが指摘したように、彼らは「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたり」して、これ見よがしに、自分がいかに信仰深いかを人々に示していた(5節)。これは「人の前で善行をしないように注意しなさい」(6章1節)と言われたイエス・キリストの教えとは正反対のあり方であり、彼らが「隠れたことを見ておられる父」(同4節)の報いよりも、目に見える人からの賞賛と報いを期待していたことが分かる。

 更に、彼らは、虚栄心と高慢という過ちに陥っていたことが指摘されている。彼らは、「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好」(6~7節)んだ。これはイエス・キリストが、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」(11節)と教えられたことと全く懸け離れた態度であった。

 言行不一致、形式化した信仰、虚栄心と高ぶり…これが律法学者やファリサイ派の人々が陥っていた過ちであった。しかし、これらは誰もが陥り易い過ちであり、特に教役者と呼ばれる者にとっては、心に深く刻むべき大事な教訓である。