ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 マタイによる福音書15章

聖書日課 マタイによる福音書15章(新共同訳 新約pp.29-31)

「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。』」(1~2節)

 食事の前に手を洗わないなんて、弟子達は何て不潔で行儀が悪いのだろう!…という話ではない。ここで非難されているのは、ファリサイ派や律法学者が教えていた宗教的な形式に従って、弟子達が手を洗っていなかったということである。

〈信仰の形骸化との戦い〉――イエス・キリストの宣教における、ファリサイ派や律法学者との戦いの本質は、まさにそこにあった。ファリサイ派や律法学者の信仰は、律法を完璧に守り行うことによって主なる神の御前に義と認められようとするものであった。その結果、彼らの生活は、あれやこれやの〈為すべきこと〉で一杯になり、いつも外面的な〈行い〉に関心が向けられていたため、内側の心や思いが蔑ろにされてしまっていた。

 信仰においては、内面と外面の両面が大切である。心が行いとなって表れるところに真の信仰がある。心だけで行いが伴わなければ空しいものとなり、行為だけで心が伴わなければ偽善になってしまう。ファリサイ派や律法学者が陥っていた問題の本質は、まさにこの偽善にあった。

 それ故、イエス・キリストは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」(16~20節)

 信仰の本質は心である。主なる神は人の上辺はなく心を見ておられる(サムエル上16章7節)。そのことを悟ったダビデは、こう記している。

「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(詩編51編19節)

 日々、主の御前に謙り、「神の求めるいけにえ」を献げる者でありたい。