ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 マタイによる福音書12章

聖書日課 マタイによる福音書12章(新共同訳 新約pp.21-24)

 12章には、ファリサイ派の人々が、イエス・キリストと弟子達の言動に対して様々な論争を仕掛けてきたことが記されている。その一つに、安息日に関する論争があった。

 安息日は、十戒の中に定められている重要な教えの一つで、7日目毎に一切の仕事を休んで主なる神を礼拝することが定められていた。それが主なる神とイスラエルの民の間のしるしであると言われていたこともあって(出エジプト記31章17節)、ユダヤ人にとって、とりわけファリサイ派の人々や律法学者にとって、安息日の律法を守ることは死活問題と言えるほど重要なものであった。

 彼らは、イエス・キリストの弟子達が安息日に麦の穂を摘んで食べているのを見て咎めた(1~2節)。麦の穂を摘むことは、安息日にしてはならない〈仕事〉だったからである。また彼らは、イエス・キリスト安息日に「片手の萎えた人」(10節)を癒されたことに怒り、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談」(14節)した。それも、医療行為という、律法に反する〈仕事〉だったからである。

 このように、ファリサイ派の人々や律法学者にとって、信仰とは〈律法を守る〉こと以外の何ものでもなかった。そこには、人への憐れみや人の事情への理解や配慮が入り込む余地は全くなかった。

 そして、一番問題なのは、そういう〈律法主義〉には、自分の力と頑張りによって主なる神に自分を義と認めさせようとする、人間の力への過信があることである。これは、裏を返せば、人間の罪深さに対する認識の浅さと甘さがあるということである。そして、そういう自己過信は、やがて他の人々、とりわけ自分と同じように律法を守る努力をしていない人を、見下したり、裁いたりするようになる。

 信仰とは、私達が自分の力や頑張りでは自分を救うことが出来ないと知ることから始まる。そして、信仰は、そういうどうにもならない自分の身代わりにイエス・キリストが十字架にかかって下さったことによって、永遠の赦しと救いの道が開かれたのを受け入れることである。これを〈恵み〉と聖書は教えている。

 この恵みに生かされる者となるために、私達は、自分の無力と罪深さを認め、主なる神と人の前に謙ることが大切である。