聖書日課 マタイによる福音書21章(新共同訳 新約pp.39-42)
イエス・キリストがエレサレムに入城された時、人々は大歓迎でイエス・キリストを迎えた(8~9節)。ところが、当のイエス・キリストは、そのような歓迎を喜ぶどころか、神殿の境内に入ると、そこで売り買いしていた人々を追い出し始めた(12節)。そして、深い憤りをもってこう言われた。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている」(13節)。
当時、神殿には、礼拝で献げる動物を売る商売人が大勢いて、境内の中は、物を売り買いする人々の声が響き渡っていた。献げ物の動物を売ることは、元々遠方から神殿礼拝にやって来る人々の便宜を図るために許可されていたものだった。しかし、それが次第に本筋からずれ、暴利を貪る商売人や、境内の利権を持つ祭司の格好の金儲けの手段と化していた。
本来、主なる神を礼拝する喜びと讃美の声に満ちている筈の神殿が、人々が物を売り買いする喧騒の場とされてしまっている。主なる神との静かな交わりと祈りの場である筈の神殿が、商売人や祭司の金儲けの場とされている。イエス・キリストの深い憤りの理由はそこにあった。真実の礼拝が妨げられる時、イエス・キリストは深い悲しみを覚えられる。そして、礼拝を妨げているものを激しい憤りをもって追い出される。
また、イエス・キリストの悲しみと憤りにはもう一つ大切な理由があった。それは、次のイエス・キリストの行動の中に見ることが出来る。
「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」(14節)。
礼拝などそっちのけで商売に走る商売人や、そのような状況を知りながら、我が物顔で神殿を支配する祭司の影で、貧しい人々、弱さの中にある人々が、いつも脇に追いやられ、忘れ去られている…。イエス・キリストの激しい憤りの理由はまさにそこにあった。
「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」…私達の家、私達の生活、私達の教会は、「祈りの家」と呼ばれるに相応しいものとなっているだろうか?