ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 マタイによる福音書20章

聖書日課 マタイによる福音書20章(新共同訳 新約pp.38-39)

「ぶどう園の労働者」のたとえを読むと、〈謎かけ〉のような思いがする人も少なくないのではないか。

 明け方早くから雇われた人も、9時、12時、午後3時、午後5時に雇われた人も(2~7節)、皆同じ賃金であった(10節)。しかも、最後に雇われた人から賃金が支払われたというのである(8~9節)。何となく割り切れない思いになっても不思議ではない。おまけに、たとえ話の締め括りの言葉が、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)だから、分かるような分からないような不思議な話である。

 しかし、それもそのはず、イエス・キリストは「天の国は次のようにたとえられる」(1節)と言われている。このたとえは「天の国」について教えているのである。それ故、この世の価値観や常識では受け入れられなくても仕方がない。

 実は、このたとえ話のテーマは、前章の金持ちの青年の話と同じである。それは、最後に「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(19章30節)と言われていることからも分かる。金持ちの青年の話では、永遠の命は、人間の真面目さや努力によって得られるのではなく、主なる神の恵みによることが教えられていた。この「ぶどう園の労働者」のたとえでも、永遠の命は、人の努力や働きによるのではなく、ただ主なる神の恵みによって与えられるものであることが教えられている。だから、その〈恵み〉に気付かず、〈報酬〉にばかり目が向いていると、どうしても割り切れなくなってしまう。

 私達が救われたのは、ただ主なる神の恵みによる。それ故、誰が偉いとか偉くないとか、どちらが多いとか少ないとかは全く関係ない。主なる神の前では、全ての人が同じ罪人である。そして、全ての人がイエス・キリストの十字架の恵みによってのみ赦され救われる。それ故、誰も誇ることは出来ない(コリントの信徒への手紙一1章29節)。

 このように、天の国とは、主なる神の恵みの世界であり、救いはこの恵みによって始まり、恵みによって全うされる。そして、この恵みの世界に入るために必要な条件はただ一つ、主の御前に謙ることである。