聖書日課 マルコによる福音書6章(新共同訳 新約pp.71-74)
「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(2~3節)
これはイエス・キリストの故郷の人々の言葉である。この時、イエス・キリストは、弟子達を連れて故郷のナザレに帰っていた(1節)。そして、安息日になったので、会堂に入って教え始められた。多くの人々は、イエス・キリストの教えを聞き、またイエス・キリストが行った奇跡を見て驚いた(3節)。
ところが、彼らはイエス・キリストに躓いた(3節)。イエス・キリストの教えを聞き、その奇跡を目の当たりにしたにもかかわらず、どうして彼らは躓いたのだろうか。
それは、彼らが、人として生まれたイエス・キリストしか見ていなかったからである。つまり、彼らにとって、イエス・キリストは相変わらず「大工」であり、「マリアの息子」であり、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟」であり、「姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいる」同郷人に過ぎなかった。
彼らは、自分達はイエス・キリストをよく知っていると思っていた。しかし、そういう思い込みが却って災いして、真のイエス・キリスト、即ち、主なる神の独り子であり、救い主として来られたイエス・キリストを見ることが出来なかった。
イエス・キリストは、人々の不信仰に驚かれた(6節)。そのため、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)と記されている。
何とも悲しく、愚かで、残念な出来事である。折角イエス・キリストが帰って来られたのに、そのイエス・キリストに躓いてしまうとは。しかし、これは、現代のキリスト者と教会にも当てはまることではないか。イエス・キリストをよく知っていると思っているキリスト者が不信仰に陥る。そして、そのために、本当はもっと沢山イエス・キリストの奇跡が起こる筈なのに、ごく僅かしか行われていないということはないだろうか。
私達は、ナザレの人々のようにならないためにも、イエス・キリストをもっと深く知り、信頼することを求めるべきではないか。