聖書日課 ルカによる福音書11章(新共同訳 新約pp.127-130)
イエス・キリストの宣教活動というと、多くの病人を癒し、大きな奇跡を行い、沢山の教えを宣べ伝えたことに目が向かいがちである。しかし、もう一つ、決して忘れてならないことがある。それは〈祈り〉である。
イエス・キリストは、食事をする暇もないほど忙しい奉仕の日々の中にあっても(いや、あったからこそ)、夜明け前に独り静かに祈りの時を持ち続けられた。そういうイエス・キリストの姿を身近に見ていた弟子達は、イエス・キリストの御力の秘訣が祈りにあることを、いつしか悟るようになったのではないか。
次から次にやって来る病む人や貧しい人、教えを聞こうと集まって来る群衆、常に疑いの目と敵対心をもって論争を仕掛けてくる律法学者やファリサイ派の人々、そして、弱さや欠点を持つ弟子達…そのような人々に囲まれながら、イエス・キリストはいかにして自分の使命を見失うことなく、果たし続けていくことが出来たのだろうか。
「そりゃ、イエス様は神の子だから、何だって出来るでしょう!」と思う人もいるかも知れない。確かにイエス・キリストは主なる神の独り子であられる。しかし、地上にいる間は、人間としての弱さと限界の中に生きられた。だからこそ、イエス・キリストは、祈られたのではないか。つまり、祈りはイエス・キリストの力の源泉であり、知恵の源であり、真の休み場であった。また、イエス・キリストの祈りは、弱さと限界の中に生きる私達にとっての模範でありモデルである。
それ故、私達も、弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったように(1節)、日々主に求め続けていくことが必要ではないか。このような求めによって、祈ることを学び続けていくことが大切ではないか。
この時イエス・キリストが教えて下さった祈りが「主の祈り」(2~4節)であるが、イエス・キリストは、それに続けてこう言われた。
「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(9~10節)。
この約束を信じて、今日も求めたいと思う。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」。