聖書日課 コリントの信徒への手紙一7章(新共同訳 新約pp.306-309)
7章でパウロは結婚について教えている。読んでいて思うのは、パウロは、結婚に関して消極的な考えを持っており、結婚を余り奨励していないのではないかということである。
「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」(8~9節)。
「相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。……しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です」(38~40節)。
しかし、パウロは決して結婚を軽んじていたわけではない。寧ろ、主の命令に従って、「妻は夫と別れてはいけない。……また、夫は妻を離縁してはいけない」と、結婚関係を保つべきことを勧めている(10~11節)。
それでは、パウロはこの章で何を教えようとしていたのだろうか。その答えが、次の御言葉の中に示されているように思う。
「思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」(32~35節)。
「ひたすら主に仕えさせるため」…これこそパウロがコリント教会の人々に教えたかったことである。結婚をきっかけに信仰の熱心さや喜びが失われたり、更には信仰から離れてしまうということが、彼らにおいて実際にあったのかも知れない。このようなことは、聖書が教える結婚の目的が見失われていたためではないか。
結婚は、主なる神によって定められた祝福の制度であり、二人の者が一つにされて、共に主を崇め、共に主に仕え、主なる神の栄光をこの世に表して生きるためのものである。今まで1人で主なる神を讃美していた人が、これからは2人で主なる神を讃美する。更に子供が生まれれば、親子で主なる神を崇め讃美する、それが結婚の第一の目的である。そして、夫婦や親子が共に主を讃美し、共に主に仕えていくところに、家族の喜びと幸福の土台がある。
西原新生バプテスト教会
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