聖書日課 マタイによる福音書22章(新共同訳 新約pp.42-44)
「神殿の境内」から商人達を「追い出し」たことで、イエス・キリストに対する「祭司長たち」や「律法学者たち」の敵対心と憎しみは、ますます深まっていった。そこで、彼らは、イエス・キリストの「言葉じりをとらえて、罠にかけ」るために、次々と問答を仕掛けてきた(15節)。
第一の問答は、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」というものである(17節)。「適っている」と答えればユダヤ人から非難を受け、「適っていない」と答えれば今度はローマ人から非難を受ける、という巧妙な質問である。イエス・キリストは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、それぞれの責任を果たすべきであるとお答えになった(21節)。
第二の問答は、「復活はないと言っているサドカイ派の人々」が仕掛けてきた(23節)。子供をもうけないまま亡くなった兄弟達の妻となった女性は、復活の時にはどの兄弟の妻になっているのかという質問である(28節)。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」というのがイエス・キリストの答えであった(30節)。
第三の問答は、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」というものであった(36節)。律法の専門家の間で意見が分かれていたため、「イエスを試そうとして尋ねた」のである(35節)。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』…『隣人を自分のように愛しなさい』」とイエス・キリストはお答えになった(37~38節)。
最後に、今度はイエス・キリスト自ら、「メシア」は「ダビデの子」だと言う「ファリサイ派の人々」に対してこう問いかけられた。
「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」(43~45節)。
「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」という言葉でマタイはこの一連の論争を締め括っている(46節)。
考えてみれば、主なる神の御子と論争してどちらが勝つかは最初から明らかである。にもかかわらず、そう信じようとしない、或いは認めようとしない愚かな人間は、今でも、御子イエス・キリストとの論争を繰り返しているのではないか。イエス・キリストを信頼することに優る賢さはない。
西原新生バプテスト教会
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