ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 雅歌2章

聖書日課 雅歌2章(新共同訳 旧約pp.1050-1051)

 7節の言葉は、3章5節、8章4節にも繰り返されており、雅歌を読み解くキーワードの一つである。

「ぶどうのお菓子でわたしを養い/りんごで力づけてください。わたしは恋に病んでいますから。あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ/右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと」(5~7節)。

「病」むほどに激しい「恋」、激しく相手を求める愛…愛は決して強制されて生まれるものではない。愛は、自由に生きる「野のかもしか」「雌鹿」のように、どこまでも自発的なものである。全き自由の上にあるからこそ、真実で美しい「愛」が目覚め、育っていく。

 信仰の真髄が主なる神への全き「愛」であるなら、信仰にも無理や強制は決してあってはならない。つまり、自由の上にあってこそ、真実な信仰が生まれ育っていく。

「神様がどうしてエデンの園に善悪の知識の木なんて置いたのか分からない」と言う人が時々いる。「あんなものさえなければ、人は罪に陥らなかった。そもそも神様が人を絶対に罪に陥らないように造ってくれれば、こんな苦労はなかった」というのである。

 しかし、それは、真実な「愛」と信仰の本質を弁えた意見ではない。「愛」はどこまでも自発的なものであり、信仰も自由の中にこそあるべきものである。イエス・キリストも弟子達を導く時に、「わたしの後に従いたい者は…」と、あくまでも弟子達の自由を尊重された(マルコによる福音書8章34節)。主なる神は私達の自由を尊重して下さる。大切なことは、その自由をどのように生かすかである。パウロはこう勧めている。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)。

「愛」と結ばれてこそ本当の自由があり、自由があってこそ真実な「愛」と信仰がある。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの温かい御声を聞き、心開かれ、御前に祈ることが出来るようになりました。私はあなたに何を申し上げましょうか。あなたは、私の中に眠っていた愛を目覚めさせて下さいました。愛が歌い始めるように、あなたは私の心を温めて下さいました。

 主よ、あなたは、あなたに対する愛を胸の内に持ちながらも、苦しみの中、痛みの中で、その愛が眠っている多くの方々を覚えて下さっています。あなたご自身がお一人お一人を訪れて下さい。あなたが備えて下さっている時、お一人お一人のあなたに対する愛を目覚めさせて下さい。あなたに向かって心の内にある本当の思い、尊い思いを告白することが出来ますように。

 心から感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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