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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 列王記下4章

聖書日課 列王記下4章(新共同訳 旧約pp.581-583)

 一人の預言者が、或る日突然死んだ。すると、その妻がエリシャのもとにやって来て「助けを求めて叫んだ」。その家は負債を抱えていたため、「債権者」「子供二人」「連れ去」られて「奴隷に」されてしまうというのである(1節)。夫を失った上に、子供まで連れ去られるとは、彼女にとっては生きる希望の全てが奪われてしまうことであったに違いない。「主を畏れ敬う人」の家族にこのような悲劇が襲うなど、一体主なる神は何をお考えなのだろうという怒りにも似た疑問が湧いて来るかも知れない。

 エリシャが「何をしてあげられるだろうか。あなたの家に何があるのか言いなさい」と言うと、彼女は「油の壺一つのほか、はしための家には何もありません」と答えた(2節)。すると、エリシャは不思議なことを命じた。

「外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。空の器をできるだけたくさん借りて来なさい。家に帰ったら、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。いっぱいになったものは脇に置くのです」(3~4節)。

 何のために「空の器」などを「借りて来」るのだろう? しかも、「その器のすべてに油を注ぎなさい」と言われても、油などどこにあるのだろう? しかし、彼女は、訳も分からないままエリシャの言葉に従った。恐らく、生きることに必死で藁をもつかむ思いだったのだろう。それでも、とにかく彼女は信じた。エリシャを、いや、エリシャを用いておられる主なる神を信頼したのである。そこに、主なる神の奇跡が起こった。

「彼女はエリシャのもとから出て行くと、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、子供たちが器を持って来ると、それに油を注いだ。器がどれもいっぱいになると、彼女は、『もっと器を持っておいで』と子供に言ったが、『器はもうない』と子供が答えた。油は止まった。彼女が神の人のもとに行ってそのことを知らせると、彼は言った。『その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子供たちはその残りで生活していくことができる』」(5~7節)。

 信仰とは、理解ではなく信頼である。勿論、理解出来ること、理解すべきことも沢山ある。しかし、理解出来ないこともある。主なる神への信仰は、私達の理解を超えたところにこそあると言えるかも知れない。理解出来ない問題が起こった時、私達は、自分の理解をとるか主なる神への信頼をとるかの選択に迫られる。或る場合には、自分の身をそっくり主なる神に委ねる決断が必要かも知れない。信仰とは本来そういうものである。

 この家の必要が満たされるために、信仰と「空の器」が必要であったように、私達も主なる神に信頼し、聖霊「油」で満たしていただけるよう、「空」の自分を主の御前に差し出そう。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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