聖書日課 列王記上18章(新共同訳 旧約pp.562-565)
18章では、エリヤが「バアルの預言者」と対決している。エリヤは、たった一人で、「四百五十人のバアルの預言者」に立ち向かっていった。いや、敵はバアルの預言者だけではなかったかも知れない。
「エリヤはすべての民に近づいて言った。『あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。』民はひと言も答えなかった。エリヤは更に民に向かって言った。『わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。』民は皆、『それがいい』と答えた」(21~24節)。
エリヤの問いかけに対し、民は一言も答えなかった。つまり、イスラエルの民は、主なる神と主なる神がお立てになった預言者に対する信頼を全く失っていたのである。
しかし、主なる神はそのような不信仰の中にある人々の前に、御力を現された。「バアルの預言者」が「築いた祭壇」には、どんなに祈っても、「狂ったように叫び続け」ても、「声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった」が(29節)、エリヤが築いた祭壇には、「三度」も水をかけたにもかかわらず、エリヤが主に祈ると、「主の火が降って」、祭壇と献げ物と水の全てを「なめ尽くし」てしまった(38節)。
「これを見たすべての民はひれ伏し」て、「主こそ神です。主こそ神です」と言った(39節)。彼らは主を信じた。これほど凄い奇跡を目の当たりにしたのだから、彼らがイスラエルの「主こそ神」であると信じても当然かも知れない。しかし、これはあくまでも〈非常手段〉であったことを忘れてはならないだろう。つまり、彼らが余りにも頑なで、主なる神に信頼を置いて生きることから懸け離れてしまっていたからこそ、主なる神はエリヤによってこの奇跡をもたらされた。
本来、信仰は目で「見たから信じ」るのではなく、「見ないのに信じる」ところにその真髄がある(ヨハネによる福音書20章29節)。しかし、人間は、目で見るところに振り回され、目に見えない主なる神に信頼を置いて生きることがなかなか出来ない。それ故、主なる神は、そのような頑なな私達に御業を見せて下さる。
それでも主なる神が願っているのは、奇跡の有無にかかわらず主を信頼し、主を愛する信仰であることを忘れてはならない。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(ペトロの手紙一1章8~9節)。
西原新生バプテスト教会
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