聖書日課 ヨシュア記16章(新共同訳 旧約pp.364-365)
「カナンの地を聖絶せよ」。これがイスラエルに課せられた主なる神からの命令であった。
「あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない」(申命記7章1~2節)。
しかし、イスラエルの民はこの主なる神の命令を徹底出来ずにいた。16章でも「カナン人」がエフライム族の地域に残っていたことが記されている。
「彼らがゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムと共にそこに住んで今日に至っている。ただし、彼らは強制労働に服している」(10節)。
3章のメッセージでも述べたように、〈聖絶〉という命令は旧約に限られたことで、新約においては罪との戦いを表している。
つまり、「カナン人」がそのまま残っている状態は、新約においては、罪と戦わずそのまま残しておくことを意味している。
16章では「カナン人」が今も生き残っていることが記されているだけだが、これが後の時代に禍根を残すことになる。ヨシュア記の次の書である士師記では、生き残りの「カナン人」によってイスラエルは大いに苦しめられることになる。
イスラエルは、「カナン人」の偶像礼拝に影響を受けて、主なる神から離れてしまったり、「カナン人」に支配される事態に至った。だからこそ、主なる神は「カナン人」を聖絶するよう命じられた。
私達は罪の結果をやがて刈り取ることになる。罪は雑草のようである。しっかりと根から抜き取ってしまわないと、また出て来る。
一例を挙げると、相手を赦したのに、赦しきれていない。記憶から忘れ去ろうと蓋をしているだけで、苦々しい思いがまだ残っている。このような状態にある時、「赦さない」という罪が根から抜き切れていない。そのことを聖書はこう記している。
「神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい」(ヘブライ人への手紙12章15節)。
私達の原罪(主なる神を認めない罪)は、イエス・キリストの十字架の死によって完全にきよめられた。しかし、救いを受けた後に犯した日々の罪は、主なる神に告白することで赦され、きよめられる。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(ヨハネの手紙一1章9節)。
「苦い根」が残っていると指摘されている罪は、救われた後、日々の生活の中で犯してしまった罪のことである。主なる神に告白せずに放っておいたり、口先だけの告白で終わっている時、「苦い根」として残る。
主なる神に申し上げるとは、主なる神の御前に明らかにすることである。雑草を根から引き抜いて天日に晒すことで干からびてしまうように、日々の罪も主なる神の御前にさらけ出すことによって、主なる神の栄光の光で干からびてしまう。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス