聖書日課 民数記33章(新共同訳 旧約pp.272-274)
カナンの地に入ろうとする前に、モーセは今までの歩みを振り返っている。「エジプトの国を出」て今日に至る「旅程をたど」りながらも(1節)、モーセは前を見つめていた。約束の地に入ってからのことである。
約束の地カナンは偶像礼拝で満ちていた。偶像礼拝に伴う忌まわしい習慣に満ちていた。主なる神は、その地からカナン人を追い払い、偶像を全て破壊するようお命じになった。
「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。ヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るときは、あなたたちの前から、その土地の住民をすべて追い払い、すべての石像と鋳像を粉砕し、異教の祭壇をことごとく破壊しなさい」(51~52節)。
旧約のイスラエルは文字通りこれを実行した。しかし、手を抜いたり大目に見て、カナン人を追い出さないなら、彼らの存在はイスラエルにとって禍根(災いの根)となると警告されている。そして実際そうなった。
「もし、その土地の住民をあなたたちの前から追い払わないならば、残しておいた者たちは、あなたたちの目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨となって、あなたたちが住む土地であなたたちを悩ますであろう」(55節)。
さて、新約の時代の私達は何を滅ぼすべきだろうか。何を追い出すべきだろうか。これを文字通り適用することには慎重でなければならない。何故なら「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの」だからである(エフェソの信徒への手紙6章12節)。
滅ぼすべきは「絡みつく罪」(ヘブライ人への手紙12章1節)、追い出すべきは罪と連動して働く悪霊である。悪霊は悪霊自身の〈考え方〉を伴って人の中に住み着く。それが〈悪しき考え〉となって、私達の心の領域に住み着く。だから、その悪魔的な考えを追い出すのである。悪魔的な考え方を追い出さなければ、悪霊は出て行かない。私達の心、即ち思考の領域はまさに霊的戦場である。
この霊的戦いを避け、罪を放置しておく人は「これくらい皆やっているじゃないか」と言う。しかし、それは、主なる神が警告されたように、私達にとって「目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨」になる。それが私達を悩ますようになる。だから、放っておかずにその罪を主なる神に言い表そう。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちをきよめてくださいます」(ヨハネの手紙一1章9節)。
西原新生バプテスト教会
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