聖書日課 ヨシュア記4章(新共同訳 旧約pp.344-345)
ヨルダン川は堰き止められた。イスラエルの人々は川底を通ってカナンの地に入った。
そこで主なる神は、ヨルダン川の川底の石を、「部族ごとに」拾い上げるよう命じられた。「これらの石」を「永久にイスラエルの人々の記念」とするためである(7節)。
「民の中から部族ごとに一人ずつ、計十二人を選び出し、彼らに命じて、ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ、それを携えて行き、今夜野営する場所に据えさせなさい」(2~3節)。
「後日」、彼らの「子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ね」てきたら(6節)、ヨルダン川で主なる神がなさった大いなる御業を語り継いだ(7節)。このことによって、イスラエルは子々孫々にわたって、主なる神に帰依することになる。
この石は、主なる神が生きて働かれたことの証拠である。主なる神が私達と共におられることの証拠である。新約時代のキリスト者も、このような証拠の〈石〉を拾う。
主イエス・キリストが私をどのようにして救って下さったか。その証しは、「永久に」残る「記念」の〈石〉である。イエス・キリストは私と共におられる、インマヌエルの神であられるという体験は、子孫に語り継ぐべき「記念」の〈石〉であり、霊的な遺産である。
イエス・キリストを信じることは、単なる観念や感情の事柄ではない。イエス・キリストが私を救って下さったという現実の事柄である。イエス・キリストが私と共におられるという事実である。
私達は、このような〈証し〉という名の「記念」の〈石〉を拾っているだろうか。
ヨシュア記は、信仰による〈勝利〉と〈豊かさ〉と〈安息〉を予表しているが、〈証し〉という「記念」の〈石〉を拾うことは、〈勝利〉への第一歩である。
聖書の知識が沢山あっても、「記念」の〈石〉がなければ、私達の信仰は空しく終わってしまう。「私は、このような出来事を通して、イエス・キリストと出会ったんだよ」と子供に語り継ぐことの出来る〈石〉を拾おう。
日本には「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」という諺がある。キリスト者は死んで何を残すだろうか。イエス・キリストこそインマヌエル――神は我々と共におられる――の神であるという証し(石)を残す者でありたい。そのためにも、地上における生涯を通して、永遠の「記念」となる証しの〈石〉を拾うことが出来るよう、祈りを献げよう。
西原新生バプテスト教会
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