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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨシュア記3章

聖書日課 ヨシュア記3章(新共同訳 旧約pp.342-343)

 いよいよイスラエルの民はヨルダン川を渡る。川を渡れば、そこは約束の地カナンである。

 かつて主なる神は父祖アブラハムに、カナンの地を与えると約束された。しかし、アブラハムの代で得た土地は「マクペラ」「墓地」だけだった(創世記23章17~20節)。

 その後、イサク、ヤコブ(後にイスラエルと改名)と世代はかわり、エジプトにおける400年を経て、アブラハムの子孫であるイスラエル民族はようやくカナンの地に戻って来た。

 カナンを征服するにあたって、主なる神はイスラエル民族に、カナンの住民との戦いを命じておられる。その中には聖絶を命じられる場面もある。このことをどう受けとめたらよいだろうか。

 当時、民族間における侵略が常に繰り返されていた。イスラエル民族も列強のはざまで、いつ滅ぼされてもおかしくない状況に置かれていた。事実、エジプトの王はイスラエル抹殺計画を実行した(出エジプト記1章22節)。だから、主なる神はエジプトを裁き、主なる神自らエジプトを打たれた。

 主なる神は、神の国をもたらすために、イスラエル民族を選び、用いられた。しかし、それを阻もうとする民族がいた。イスラエルを滅ぼそうとすることは、主なる神に敵対するサタン的な働きである。

 カナンの地における戦いも、そのご計画の中で位置づけられるものである。そして、主なる神の裁きの担い手として、主なる神はイスラエルを用いられた。

 だからといって、この旧約の戦争は、新約の時代である今日において侵略を正当化する根拠とはならない。旧約における戦争は、新約においては「血肉を相手にするものではなく、敗と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの」であり(エフェソの信徒への手紙6章12節)、侵略戦争を肯定するものではない。

 イエス・キリストを守るために「剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした」ペトロに対し、イエス・キリスト「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われ、武力の行使をお認めにならなかった(マタイによる福音書26章51~52節)。

 しかし残念なことに、後の国教化したキリスト教会は、武力をもって神の国を実現しようとした。十字軍による侵略はその最たるものであり、そのような逸脱は今日まで暗い影を落としている。

 新約の時代においては、いかなる侵略戦争も正当化出来る根拠はない。私達の戦いは、血肉に対するものではなく、武力をもって支配しようと背後にあって働くサタンとの戦いである。

 話を戻そう。イスラエル民族がカナンの地に入る際、契約の箱が先立っている。

ヨシュアが祭司たちに、『契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ』と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ」(6節)。

「契約の箱」には律法を記した十戒の石板が収められていた。つまり、「契約の箱」は、主なる神の御言葉が収められた箱であり、主なる神ご自身を表す象徴的な存在である。この「契約の箱」を先頭にしてイスラエルは進んだ。

 私達の人生は何が先頭になっているだろうか。イスラエル「契約の箱」を先頭に進んだように、私達も主なる神の御言葉を先頭にしているだろうか。私達が信仰の勝利を得るためには、いつも主なる神の御言葉が先立つべきである。

 また、「契約の箱を担いだ祭司たち」ヨルダン川に足を踏み入れた時、ヨルダン川は堰き止められ、民は川を渡ることが出来た。

ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた」(14~16節)。

 40年前、紅海を渡る時と似ているが、違うところがある。紅海の場合、モーセ「手を海に向かって差し伸べる」と、海の「水は分かれた」(出エジプト記14章21節)。しかし、ヨルダン川の場合、「契約の箱を担いだ祭司たち」が足を踏み入れると、川の水が分かれた。

 紅海の時は、主なる神が一方的に事をなして下さった。それは、救いのための道を、主なる神が開いて下さったことを意味する。しかし、ヨルダン川の場合、救いのための道ではない。救われた後、信仰によって勇気を出し、一歩を踏み出すことで道が開かれることを意味している。

 御言葉を信頼して自らの足で一歩踏み出してみよう。そうすれば、勝利の道が開かれる。安息への道、豊かさへの道が開かれる。

 イエス・キリストの弟子のペトロも、「来なさい」と言われたイエス・キリストの御言葉を信じ、「舟から降りて」ガリラヤ湖に足を踏み入れた時、「水の上を歩」くことが出来た(マタイによる福音書14章29節)。

 奴隷の地エジプトから脱出することは、主なる神の一方的な御業であった。主なる神が紅海の水を分けて下さり、そこを通って救い出された。

 一方、信仰の勝利のためには、自らの足で踏み出さなければならない。「契約の箱」を先頭にしたように、主なる神の御言葉を信頼して、踏み出してみよう。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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