聖書日課 申命記20章(新共同訳 旧約pp.311-312)
イスラエルがこれから立ち向かう相手は、皆自分達より大きく強い民ばかりだった。しかし、主なる神は、彼らを見ても「恐れてはならない」と命じられた。
「あなたが敵に向かって出陣するとき、馬と戦車、また味方より多数の軍勢を見ても恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導き上られたあなたの神、主が共におられるからである」(1節)。
そうは言われても、現実に武装した軍隊、強そうな兵器を前にしたら、誰でも恐れるかも知れない。イスラエルは、荒れ野を旅してきた民であり、充分な軍事訓練も兵器もなかった。
しかし、一つだけ違うことがある。全能の神である「主が共におられる」ことである。
私達の人生においても、目に「見えるもの」を見れば恐れを抱かせる要因が山積している。しかし、「見えないもの」にも「目を注」ごう。そこには、「共におられる」神、イエス・キリストがおられる。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは存続するからです」(コリントの信徒への手紙二4章18節)。
見えない世界は、肉眼で見えないだけで、確かに生き、働いておられる主なる神の世界である。
とはいえ、主なる神は、それでも「恐れて心ひるんでいる者」に対しては、無理をせず「家に帰」るよう言われた。
「役人たちは更に民に勧めて言いなさい。『恐れて心ひるんでいる者はいないか。その人は家に帰りなさい。彼の心と同じように、同胞の心が挫けるといけないから』」(8節)。
全員が同じように戦えるわけではない。恐れて弱気の者もいる。彼らに対する配慮をしつつ、主の戦いは進められていく。
さて、イスラエルは有無を言わさず敵を滅ぼしたわけではない。戦闘の前にまず「降伏を勧告し」た。聖絶は問答無用でなされたわけではない。
「ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい」(10節)。
新約の時代における神の民の戦いは、武力による戦闘ではなく、霊的な戦いである。そして、主なる神の和解の福音を伝える。いわば主なる神の御前に「降伏」するように勧めるわけである。この和解を受け入れる人は、自分が罪人であることを認め、主なる神の正しい裁きの前に「降伏」する。
「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(コリントの信徒への手紙二5章20節)。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス