聖書日課 ヨハネの手紙一4章(新共同訳 新約pp.445-446)
或る方が、自分の不幸な人生を振り返って、「神の愛など分からない」と言われたことがあった。こんなに不幸なことばかりなのに、どうして主なる神が私を愛して下さっていると言えるのか。とても信じられないというのである。確かに、その方の生い立ちは大変なもので、そのためにずっと苦しんでこられた。
私達の人生にも、「どうしてこんなことが?」「何故あんなことが?」と嘆きたくなる出来事や状況がある。願っても、祈っても、一向に願いは叶わないし、状況も改善されない。そのような時、私達は、主なる神は本当に私を愛しておられるのか、と主なる神の愛を疑い始めるかも知れない。
しかし、聖書は、主なる神の愛は、御子イエス・キリストの十字架によって全ての人の前に明確に示されているとはっきり宣言している。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(9~10節)。
イエス・キリストの十字架は、罪の赦しの源であり、主なる神の愛の究極の現れである。この十字架の赦しと愛を信じることによって、私達は救われた。それ故、私達が主なる神の愛を疑う時、十字架の御業とその意味が私達の中で薄らいでいるのではないか。
私はその方にこのように話した。すると、その方は暫くの沈黙の後、ぽろぽろと涙を流しながら言われた。「神様は確かに私を愛して下さっているんですね」。
イエス・キリストは、私達を救うために、天の栄光を捨て、肉体をもってこの世に生まれて下さった。多くの艱難、苦難を受けながら生きられた。そして、迫害と偏見の中で遂に十字架にかけられて死なれた。イエス・キリストのご受難とその意味を、私達は決して忘れるようなことがあってはならない。何故なら、ここに主なる神の愛があるからである。そして、私達が主なる神に愛されていることを覚える時、あらゆる恐れや憎しみから解放され、私達は「互いに愛し合う」ようになる。こうして主なる「神の愛がわたしたちの内で全うされ」る。
「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(11~12節)。
西原新生バプテスト教会
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