聖書日課 ヨハネの手紙一3章(新共同訳 新約pp.443-445)
イエス・キリストを主と信じた者は皆、神の子とされているということを知らないキリスト者は恐らくいないだろう。しかし、このことを事実として受けとめ、この事実に基づいて日々生きているキリスト者は、どれくらいいるだろうか。案外多くのキリスト者が、知ってはいるけれども、本気でそう思ってはいない、そういう意識で日々生きていないというのが現実ではないだろうか。
時々「自分のような者は神の子と呼ばれるには相応しくない」と言う人がいる。しかし、これは決して真の謙遜ではなく、寧ろ不信仰ではないだろうか。本当に御言葉を信じ、イエス・キリストを主と信じたのであれば、神の子とされていることを素直に喜び、感謝して、日々神の子とされている者に相応しく生きようとするに違いない。そういう意味で、ヨハネは、神の子に相応しい生き方について教えている。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません」(2~6節)。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(16~18節)。
これが神の子として相応しい生き方であるとヨハネは教えた。しかし、ヨハネは、これが出来たら神の子にされると言ったのではない。イエス・キリストによって既に神の子とされているのだから、そのことを喜び、感謝して、心に深く受けとめる者は、そのように生きるようになると教えている。だからこそ、ヨハネは最初にこう言っている。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(1節)。
西原新生バプテスト教会
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