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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

主日礼拝宣教 2021年5月30日

主日礼拝宣教 2021年5月30日
使徒言行録16章25〜40節(新共同訳 新約pp.245-247)
「真夜中の讃美」

1. 牢獄の中での讃美と祈り

「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(25節)。今日私達が受けた御言葉はこのような一文から始まる。「真夜中ごろ」というのは象徴的な言葉である。人生の中で最も暗く辛い状況の中であなたは何をするだろうか。しかも、パウロとシラスがいたのは、真夜中でなくても真暗な「いちばん奥の牢」(24節)であった。そもそも二人は何故真夜中まで起きていたのか。鞭で打たれた背中が痛み(23節)、「木の足枷」(24節)が苦しくて眠ることも出来なかったのだろう。しかも、彼らは何も悪いことをしていない。そのように不当な仕打ちを受けている中で、二人は主なる神を讃美したというのである。足枷は彼らの心まで縛ることは出来なかった。牢獄の暗闇は彼らの心の光まで消すことは出来なかった。
 そして、獄中で「賛美の歌」が歌われるなど、この牢獄が始まって以来のことだろう。今までここで聞こえてきたものと言えば、人を馬鹿にする言葉、自分を正当化する言葉、恨み辛み、怒鳴り声ばかりだったに違いない。そのような場所で、「賛美の歌」が歌われた時、それは彼らがこれまで出会ったことのないものだったに違いない。だから、「ほかの囚人たちはこれに聞き入っ」たのではないか。
 では、何故パウロとシラスは、そのような理不尽な状況の中で主なる神を讃美することが出来たのか。先週の礼拝で与えられた御言葉にあったように、主なる神には主なる神のご計画があり、時に人間には思いもよらぬ仕方で事を進められると信じていたからである。私達は時々人生の分岐点に立たされる。その時、主なる神を信頼して讃美するかということが問われる。私達の口から讃美が出るか、苦々しい言葉が出るかによって、私達のその後の歩みは大きく変わってくる。
 正直なところ、私はこのような宣教を語るのが恐ろしい。というのは、このようなことを語ると、「では、お前はどうなのか」とまず自分が問われるからである。先週の宣教で「主なる神のご計画は私達が立てる計画よりも遥かに奥深く素晴らしいと信頼出来るだろうか」と語った。
 ところが、先週定期総会で私の協力牧師就任が決議され、帰宅した後、私は自分の罪深さ、欠けの多さ、また沢山の課題が取り巻く教会の実情を知っているだけに、不安や恐れに捕らわれそうになった。「主よ、これからどのようにしてあなたの教会を守ればよいのでしょうか」が、翌朝の祈りの第一声だった。しかも、今日この御言葉を取り次ぐことを知っている。語っている本人が実行しないで、「いかなる時にも主を讃美しましょう」と語るほど空しいことはない。決心して、主に讃美を献げることを選んだ。
 讃美は素晴らしい。苦しみや不安から徐々に主なる神に目を上げることが出来る。讃美は有り難い。祈ろうと思っても言葉にならない時がある。しかし、讃美には歌詞がある。歌詞が単純明快な讃美歌を繰り返し歌うことによって自分の祈りとなり、主なる神に対する信頼が生まれてくる。私の場合、先週は新生讃美歌103番「望みも消えゆくまでに」、530番「ただ信ぜよ」、627番「成したまえ 汝がむね」を繰り返し歌った。
 これは皆様にもお勧めしたいが、讃美歌集を開かなくても歌える讃美歌を2~3曲持っておかれてはどうか。「讃美したくない時にこそ讃美すべきである」というのは、これまで寺澤前牧師や他の牧師からも、お聞きになられたと思う。しかし、知っていることと実行することの間には天と地ほどの開きがある。

2. 主なる神の介入

 単純明快な讃美歌を何度も繰り返し歌う中で、私は、主なる神から祈りの言葉をいただき、力をいただくことが出来た。讃美の中に住まわれる主が私に介入して下さった。
 パウロとシラスが主を讃美し、祈った時も同じである。どのような「賛美の歌」を歌い、どのような祈りを献げたかは分からない。しかし、「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた」(26節)。主なる神が介入されたのである。地震だけなら偶然だと思うかも知れない。しかし、「牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」(26節)時、それを偶然と呼べる人は誰もいなかった。しかし、更に驚くべきは、囚人が一人も逃げなかったことである(28節)。囚人達も、一連の出来事が神の業としか思えなかったのだろう。彼らは神を畏れ、逃げることも忘れてしまった。主なる神は囚人達の心の中にも介入されたのである。
 一方、看守は「囚人たちが逃げてしまったと思い込み」「自殺しようとした」(27節)。その時、パウロの声が牢獄中に響き渡った。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」(28節)。見ると凶暴な囚人達が、自己中心的な囚人達が、全員そこに留まっていた。
 その瞬間、看守の心の内で人生の価値観の大変革が起こった。「この二人は私が持っていないものを持っている。人生の確信、揺るがない平安、そして、ひどい仕打ちをした私をも死から救おうとする愛。私もそれが欲しい」。そう思った時、看守は、囚人であるパウロとシラスの前にひれ伏し(29節)、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(30節)と尋ねた。主なる神は看守の心にも介入された。
 二人の答えは単純明快だった。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(31節)。主イエス・キリストを信じたらどうなるか。変えられた姿をパウロとシラスの中に見ていた看守は即座に信じた。その信仰は彼の心の中だけでなく、行動にも変化をもたらした。前日二人を牢にぶち込み、足枷をはめた手は、二人の背中の「打ち傷を洗」う手に変えられた(33節)。また、彼の変化を見たからだろうか。「家族の者」も信じて「皆すぐに洗礼を受けた」(33節)。主なる神は看守の家族の中にも介入された。
 主なる神は日本に介入される。沖縄に介入される。私達の教会に介入される。そして、あなたに介入される。だから、讃美してお迎えしよう。理不尽な仕打ちを受けて苦しんでいる方、主なる神はあなたの状況の中に介入して下さる。主を讃美しよう。今人生で最も暗く辛い状況の中にある方、主なる神はあなたの暗闇に介入して下さる。主を讃美しよう。悲しみのどん底にある方、主はあなたのどん底にまで降りて介入して下さる。主を讃美しよう。
 前にも宣教で触れたことがあるが、私が沖縄に来てお世話になっている方が属している教会には、刑務所でイエス・キリストと出会い、今牧師として仕えている方がおられる。その方は「聖書を読みなさい」という牧師のアドバイスに従い、刑務所で聖書を読む中で「悪しき者は自らの過ちの罠にかかり/その罪の綱につながれる」(箴言5章22節)という御言葉に出会った。そして、これまで自分の人生が上手くいかなかったのは主なる神に従わなかったからだと示され、これからはイエス・キリストを信じて生きていこうと決心された。刑務所でその方の心に主が介入された時、彼は主なる神の愛を伝える者に変えられた。これは誰も否定することの出来ない事実である。
 主なる神は、変わる筈がないと思われる人の心にも介入される。また、変わる筈がないと思われる私達の家族にも介入しようとしておられる。だから、主を讃美してお迎えしよう。

3. 神の家族の形成

 主が正しく裁かれた結果、パウロとシラスは翌朝釈放されることになった(35~36節)。この時、パウロは自分がローマ帝国の市民権を持つ」者であることを伝え、「裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄した」ことに対する謝罪を求めた(37節)。それは、この後フィリピの町に残されるキリスト者の集まりを不当な攻撃から守るためであった。
「牢を出た二人は、リディアの家に行」き、そこに集まっていたキリスト者「励ましてから出発した」(40節)。彼らがフィリピの教会の基礎となった。私達はその中の少なくとも三者を知っている。まず、リディアとその家族で、彼らは上流階級に属していた。次に、占いの霊を追い出してもらった女で、彼女は奴隷だった。第三に、看守とその家族で、彼らは中流階級に属していた。このように、普通であれば決して出会わなかっただろう人達が、主イエス・キリストに対する信仰によって、フィリピの町に神の家族を形成した。
 私達も元々全く知らない者同士である。では何故今同じ礼拝堂に集まっているのだろうか。それは、私達一人一人に主が介入され、私達が主イエス・キリストを信じるように働きかけて下さったからに他ならない。そのおかげで、私達は今ここに神の家族を形成している。主なる神が私達の生活の只中に介入されることを心から歓迎し、今週もイエス・キリストの命を受け取ろう。