聖書日課 ヨハネによる福音書19章(新共同訳 新約pp.206-208)
イエス・キリストの十字架の傍には婦人達が立っていた。その中には、イエス・キリストの母マリアもいた(25節)。そこには、息子であるイエス・キリストを思う母親の愛もあったことだろう。しかし、それと共に、いやそれ以上に、イエス・キリストを主と信じる信仰における愛があったのではないか。マリアは、この時までに、イエス・キリストを主なる神の御子として信じるようになっていたのである。
一方、イエス・キリストも、十字架の苦しみという極限状態の中にあっても、母マリアへの愛と配慮を忘れることはなかった。自分の息子の残酷な死を、ただ呆然と見届けるしかない母親の気持ちを慮り、イエス・キリストは、「母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われ」、また弟子に向かっては、「見なさい。あなたの母です」と告げた(26~27節)。「愛する弟子」とは、この福音書の著者である使徒ヨハネ自身のことであると言われているが、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(27節)。
ここには確かに、家族への愛が示されている。しかし、それと共に、家族への愛を超える、いやそれをも包む大きな愛である神の家族としての愛の絆が示されている。肉親への愛も大切なものであるが(テモテへの手紙一5章4節)、主なる神の御心に従って生きる神の家族の愛は、それをも包み込む、より大きく、より深く、永遠のものである(マルコによる福音書3章34節)。
また、ここには、誰よりも助けを必要としている者に、真っ先に手を差し伸べるイエス・キリストの愛が表されているとも言える。自分の息子を目の前で失おうとしている母親に、新たな息子をお与えになったのである。これほど適切な配慮は他にないだろう。
それにしても、イエス・キリストには実の兄弟がいたではないかと思う人がいるかも知れない。しかし、イエス・キリストの兄弟はこの時まだイエス・キリストを信じていなかっただろうと思われる。だからこそ、イエス・キリストは、十字架の傍まで従って来た「愛する弟子」ヨハネに、母マリアを託すことにしたに違いない。
後にヨハネは、十字架を指して、「ここに愛があります」(ヨハネの手紙一4章10節)と記している。その愛には、ここに見たような愛もあった。十字架は、まさしく愛そのものである。
西原新生バプテスト教会
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