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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨハネによる福音書9章

聖書日課 ヨハネによる福音書9章(新共同訳 新約pp.184-186)

 通りすがりに見かけた盲人について(1節)、イエス・キリストの弟子達が「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねた(2節)。それは至って冷静で真面目な信仰上の質問だった。しかし、それは温かみを感じさせる言葉ではない。どうしてだろうか。

 それは、弟子達の質問には真理を追究する冷徹な目はあっても、その人を思いやる心が存在していなかったことに原因があるのではないか。つまり、弟子達にとって、この盲人は、あくまでも通りすがりの見知らぬ他人でしかなかった。

 では、イエス・キリストは、この時何と答えられただろうか。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(3~5節)。

 イエス・キリストは、「神の業がこの人に現れるためである」と言われた。つまり、この盲人に「神の業」が現れるのを見ておられた。弟子達のように、病の原因を探るのではなく、病という現実の中に生きて働かれる主なる神の御業を見ていたのである。そこには、病に苦しむ盲人への思いやりと、何とかして彼を救おうとする心があった。

 それ故、イエス・キリストは、癒された盲人がファリサイ派の人々から非難されて追い出されたことを聞くと、再び彼に会って、こう言われた。「あなたは人の子を信じるか」(35節)。

「彼が、『主よ、信じます』と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。『わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』」(38~39節)。

 イエス・キリストは、盲人の目を癒されただけでなく、彼がイエス・キリストを信じて、主なる神との交わりである永遠の命に生きる者となることを願っておられた。それ故、盲人の肉の目を開くだけでなく、霊の目、信仰の目も開かれた見えるということの真の意味がここにある。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町字内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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