ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 マタイによる福音書18章

聖書日課 マタイによる福音書18章(新共同訳 新約pp.34-36)

「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った」(1節)

 これが、この時点における弟子達の専らの関心であった。弟子達は、地上の価値観を天の国にも持ち込んで考えていた。

「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである』」(2~5節)

 これがイエス・キリストの答えであった。当時の世界では、子供は最も取るに足りない者だった。「偉い」ということからすれば、子供は最も低い者と見なされていた。しかし、イエス・キリストは、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われた。つまり、天の国では、自分を低くすること、即ち謙遜であることが最も価値あることだった。

 謙遜は自由をもたらす。この世における身分や業績によって自分の価値をはかるのではなく、主なる神に愛され受け入れられていることに、自分の価値の基盤を置いているからである。この基盤は、イエス・キリストの十字架の御業の故に、永遠に揺らぐことがない。即ち、私達は、100%赦され、愛される者とされているのである。

 それ故、天の国に生きる者は、自分を偉くしようとする必要がない。何故なら、主なる神の愛によって絶対的に愛されているからである。そして、そのような主なる神の愛に包まれ満たされるからこそ、他の人々も愛と平安をもって受け入れることが出来る。

 本章には、小さな者を躓かせる罪への警告(6~9節)、迷い出た羊のたとえ(10~14節)、罪に陥った兄弟への忠告(15~20節)、仲間を赦さない家来のたとえ(21~35節)などの教えが続くが、これらは全て、主なる神の御前に謙遜であることによって可能となる。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(3~4節)

 あなたは、このイエス・キリストの教えの重要性を確信しているだろうか。