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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 マタイによる福音書25章

聖書日課 マタイによる福音書25章(新共同訳 新約pp.49-51)

 25章では、前の章で教えられた終わりの日に備えて、どのように生きるべきかが三つのたとえをもって語られている。

 一つ目のたとえは、「十人のおとめ」のたとえである(1~13節)。花婿を迎える10人のおとめたちのうち(1節)、愚かな5人は、ともし火と共に油を用意していなかったため(3節)、夜中にやって来た花婿を迎えに出られず、婚宴の戸が閉められてしまい、壺に油を用意しておいた賢いおとめたちは、花婿を出迎え、婚宴の席に入ることが出来たという話である(10節)。イエス・キリストがいつ来られても大丈夫なように、備えて生きることが教えられている。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(13節)。

 二つ目のたとえは、「タラントン」のたとえである(14~30節)。僕たちが主人から財産を預かった(14節)。5タラントン預かった者と2タラントン預かった者は、それで商売をして、それぞれ5タラントンと2タラントンをもうけた(16~17節)。しかし、1タラントン預かった僕は、何もせずにただ隠しておいた(18節)。やがて主人が帰って来た時(19節)、商売をしてもうけた僕たちは、その忠実さを褒められ、多くのものを管理するようになった(20~23節)。しかし、恐くなって預かった財産を隠しておいた僕は、財産を取り上げられて追い出されてしまった(28節)。

 終わりの時代に生きる者は、主なる神からいただいている賜物を大いに用いて生きるべきである。イエス・キリストは、信仰に生きることが、そういう積極的なものであることを教えられた。「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(29節)のである。

 三つ目は羊と山羊の話である(31~46節)。これは、たとえというよりも、イエス・キリストの再臨の時に実際に起きることであると思われる。羊にたとえられた人々は、飢えた人に食べ物を与え、渇いた人に飲み水を与え、旅人に宿を貸し、裸の者に服を着せ、病人を見舞い、獄中にいる人を訪ねた人達である(35~36節)。彼らは、主なる神に祝福され、御国を受け継ぐ者とされ(34節)、永遠の命に与る(46節)。一方、山羊とは、全くそうしなかった人達で(42~43節)、彼らは永遠の罰を受ける(46節)。

 この時イエス・キリストは言われた。「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。自分の周りにいる病んだ人、痛んだ人を愛し、その必要に応えることは、イエス・キリストを愛し仕えることと同じである。何故なら、イエス・キリストは彼らの中におられるからである。そのようなイエス・キリストに、あなたも日々出会っているだろうか。