ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 マタイによる福音書27章

聖書日課 マタイによる福音書27章(新共同訳 新約pp.56-59)

 イエス・キリストは、ローマの総督ピラトによって死刑の判決を受け、十字架につけられた(26節)。イエス・キリストが裁かれたという時、そこには二重の意味がある。
 確かに、目に見える現実としては、イエス・キリストは、ピラトの下で裁かれ、十字架刑を言い渡された。しかし、ピラト自身はイエス・キリストの無罪を知っていた。そうだとすれば、ピラトの裁判はインチキだということになる。民衆が気に入るように、罪のない方を罪に定めたことになる。
 しかし、そこではもう一つの目に見えない裁きが行われていた。人間の手による出鱈目な裁きをも用いて、主なる神の裁きが行われた。全ての人間の罪を贖うために、主なる神の独り子が十字架にかかって死なれた。私達が受けるべき主なる神の裁きが、十字架刑として御子イエス・キリストの上に下された。御子は罪がないのに罰せられた。この世の裁判の不完全さ、過ちを通して、主なる神の御心が行われた。主なる神の御心に従って、イエス・キリストは十字架につけられた。
 そして、十字架につけられたというのは、主なる神に呪われたということである(申命記21章22~23節)。当時、ユダヤの社会で一般に行われていた死刑の方法は、石打の刑だった。しかし、イエス・キリストは、十字架につけられて死なれた。そのため、ユダヤ人は、木にかけられて死んだイエスという男は、主なる神に呪われている、そのような人間を主なる神の独り子、救い主キリストとして宣べ伝えるのは、主なる神に対する冒瀆であるという批判を展開した。
 それに対し、使徒パウロは、この批判をそのまま引き受けながら、切り返している。確かに、イエス・キリストは十字架にかけられて殺された。主なる神に呪われた。しかしそれは、本来私達が受けるべき主なる神の呪いを、御子が代わって受けて下さったということに他ならないとパウロは言う(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)。パウロは、ユダヤ人の非難を真向から受けて立ち、その論理を逆手にとって、福音の真理を鮮明に描き出した。
 ローマの信徒への手紙1章18節で、パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」と述べている。主なる神は私達の不信仰や不義を決して見過ごしになさる方ではない。主なる神は義なる方なので、不義なるものに対しては、容赦のない怒りを現される。
 十字架にかけられたイエス・キリストを、人々は「神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(40節)、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(42節)と罵った。いずれもイエス・キリストの苦難の意味を全く理解していない言葉である。もしイエス・キリストが十字架から降りたならば、主なる神に審かれるべき私達の罪はそのまま残る。私達は、自らの罪の故に、主なる神の激しい怒りによって焼き尽くされるほかない。しかし、主なる神はその怒りを、私達の上にではなく、独り子の上に下された。私達が受けるべき主なる神の怒りと罪の審きを、イエス・キリストが代わって引き受けて下さった。イエス・キリストは、十字架から降りないことによって、私達の救いを全うして下さった。
 また、十字架上のイエス・キリストの叫びがしばしば問われる。主は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれた。この叫びは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である(46節)。キリスト教に反対する人は、こんな情けない叫びを上げて死んでいったような人間が救い主である筈がないと言って、この叫びを格好の攻撃材料にしてきた。しかし、イエス・キリストはまさに、私達に代わって、主なる神から見捨てられて下さった。命の源である主なる神から引き離されるという絶望を味わい尽くして下さった。
 私達は、主なる神が私達を愛して下さっているということを繰り返して聞かされている。しかし、私達は、主なる神の愛について聞かされる心地良さの中で、忘れてしまってはならない。愛される資格のない私達が、主なる神に愛され、主なる神に受け入れられるために、主なる神と私達の間に立って、主なる神の御怒りを一身に受けて、苦しみを負われた方がいるということを。御子イエス・キリストは、私達に代わって、私達が受けるべき主なる神の怒りを、その身に負われた。イエス・キリストが、十字架の上で完全に贖いをなし遂げて下さったからこそ、私達は永遠の刑罰から解放された。そして、私達に主なる神の恵みと義と永遠の命がもたらされた。