ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 マタイによる福音書19章

聖書日課 マタイによる福音書19章(新共同訳 新約pp.36-38)

「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(16節)

 これは、一人の金持ちの青年がイエス・キリストに尋ねた質問である。とても真面目な質問であり、この青年が真剣に生きようとしていたことがよく分かる。

 しかし、真面目であれば全てOKかと言えば、そうではない。実は、この青年が永遠の命を得るには、いくつかの問題があった。その問題は、彼の問いかけそのものの中に見ることが出来る。彼は「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問うた。善いことをすれば、永遠の命を得ることが出来ると彼は考えていたのである。これこそまさに〈律法主義〉である。彼は自分の真面目な努力によって、救いを得ようとしていた。

 このように言うと、「真面目に努力することのどこがいけないんだ?」と疑問を持つ人がいるかも知れない。勿論、真面目であることも、努力することも、決して悪いことではなく、素晴らしいことである。しかし、〈救い〉に関して言えば、人間はどんなに真面目に努力しても、主なる神の御前で完全な義を得ることは不可能である。それほど人間の罪は根深く深刻な問題なのである。

 律法主義者は、そのことを悟ろうとも認めようともしない。何故なら、自分の努力で、善い行いをすれば救いを得ることが出来ると信じているからである。こういう信仰の問題点は、いつの間にか、自分は正しい、自分はやっている、という自己満足と高ぶりに陥ってしまうことである。

 この青年もそうであった。イエス・キリストが、「もし命を得たいなら、掟を守りなさい」と言うと(17節)、彼は、「そういうことはみな守ってきました」と自信をもって答えた(20節)。この時、青年に欠けていたのは、謙遜と罪の自覚だった。

 イエス・キリストは、そのことを見抜いておられた。それで彼にこう言われた。

「『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(21~22節)

 イエス・キリストは、彼がそう出来ないことを分かっていて、敢えてこう言われたのではないか。彼を、善い行いによる義ではなく恵みによる義、律法による義ではなく信仰による義に生きる者とするために。

 あなたはどちらの義に生きているだろうか。善い行いによる義だろうか。それとも恵みによる義だろうか。