聖書日課 マタイによる福音書17章(新共同訳 新約pp.32-34)
ペトロが主イエス・キリストに信仰を言い表して6日の後、イエス・キリストは、ペトロとヤコブとヨハネの3人を連れて高い山に登られた(1節)。すると突然、弟子達の目の前で、イエス・キリストの姿が変わり、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。しかも、「見ると、モーセとエリヤが現れて、イエスと語り合って」(3節)いた。
このような時、いつも真先に動き出すのがペトロである。この時も「ペトロが口をはさんでイエスに」言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」(4節)。
驚くやら、嬉しいやらで、ペトロは自分が何をしたらよいのか分からなかったに違いない。
それにしても、どうしてこのような出来事が起こったのだろうか。何故イエス・キリストは、わざわざ高い山に登って、弟子達の目の前で栄光の御姿を現されたのだろうか。
一つ言えるのは、この体験によって、イエス・キリストに対する弟子達の信仰は確実に深まったに違いないということである。つまりこの出来事は、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16章16節)と信仰を言い表したペトロ達に、本来のイエス・キリスト、天の栄光に輝くイエス・キリストの御姿を見せることで、イエス・キリストへの信仰の確信を持たせるためであった。
このように、イエス・キリストを救い主と信じる人は誰でも、栄光の主イエス・キリストに出会い、イエス・キリストの栄光を見るという体験が必要なのではないか。勿論、誰もが弟子達と同じ体験をするということではない。信仰は、単なる信条ではなく、生ける真の神との出会いであり、謙って主なる神と共に生きることだからである。
では、一体どうすれば、栄光のイエス・キリストに出会い、イエス・キリストの栄光を見ることが出来るだろうか?
御言葉と祈りと礼拝によって、私達は、日々生ける真の神と出会い、交わり、共に歩むことが出来る。そういう主なる神との出会いを、あなたは日々体験しておられるだろうか。