聖書日課 創世記31章(新共同訳 旧約pp.51-54)
(1) ヤコブに害を加えられないラバン(23〜29節)
敵がどんなに強くても、主なる神の御手の中にいる人にはどうすることも出来ない。
「ヤコブが逃げた」という知らせを聞いたラバンは、殺気立ち、急いでヤコブの後を「追いかけて行」った(22~23節)。
しかし、ラバンに「夢の中で」主なる神の「お告げ」が与えられる。その内容は「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい」という警告であった(24節、29節)。これは主なる神がヤコブの主人であるという宣言に他ならない。
ラバンはこれまでヤコブを奴隷のように扱き使い、主人のように振る舞った。しかし、今後ラバンが主なる神の命令を破ってヤコブを「ひどい目に遭わせる」なら(29節)、それは主なる神に敵対する深刻な罪となる。
ラバンにはヤコブに害を与える力があっても、その力を用いることが出来ない。ヤコブはもうラバンを恐れなくてもよくなった。主なる神がヤコブの真の主人として彼を守って下さるからである。
(2) 尻の下に敷かれた守り神(30〜35節)
偶像は何の力もない空しい彫刻に過ぎない。
ラバンは自分の「家の守り神の像を盗んだ」のはヤコブであると確信していた(19節、30節)。これに対し、ヤコブは、盗んだのは自分ではないと潔白を強く主張した。自分の妻「ラケルがそれを盗んでいた」とは夢にも思わなかったのである(31~32節)。
遂にラバンの捜索がラケルにまで及んだ。しかし、ラケルが「座って」いる「らくだの鞍の下」に隠した「守り神の像」を、ラバンは「見つけることはできなかった」(34節)。
重要なのは、危機をうまく乗り越えたことよりも、命を懸けて盗むほどの価値が「守り神の像」にはないということである。「守り神」が女の尻の下に敷かれる恥を受けても何事も起こらなかったことからも明らかなように、人が作った偶像は何も出来ない虚像に過ぎない。
祈り
愛する天のお父様、今日も私の罪のために流されている尊い主イエス・キリストの御血潮を感謝致します。あなたに贖われ、日々、あなたのご栄光を現す者と変えられ続けていくことを信じ、感謝致します。新しく始まる一日、あなたの十字架を見上げ、あなたの聖なる御名が崇められるために用いられますように。敵が私を襲ってきても、あなたが私を守って下さるので恐れません。偶像に仕えている人々が、あなたを恐れて御前に跪くことが出来ますように。主イエス・キリストの聖なる御名によってお祈り致します。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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