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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

主日礼拝宣教 2021年11月7日

主日礼拝宣教 2021年11月7日
ルカによる福音書15章11~32節(新共同訳 新約pp.139-140)
「人生のUターン」

1. 「『放蕩息子』のたとえ」?

 今日私達に与えられた御言葉は、そこに表題が付けられているように、一般に「『放蕩息子』のたとえ」と呼ばれている。イエス・キリストが語られた喩えの一つである。
 しかし、この喩えを最後まで読むならば、話の中心は、放蕩息子が真人間になったことではないと分かる。これは、放蕩息子の改心の物語というよりも、放蕩息子を迎えて喜ぶ父親の物語と呼ぶべき話である。
 ルカはイエス・キリストの喩えをこの前にも2つ記している。一つは1節から7節にある「『見失った羊』のたとえ」、もう一つは8節から10節にある「『無くした銀貨』のたとえ」である。「見失った羊」の喩えでは、主役は迷子になった一匹の羊ではない。羊を必死に探し、遂に見つける羊飼いである。「無くした銀貨」の喩えでは、主役は無くした銀貨を見つけて大喜びする女性である。この喩えにおいても、息子が改心したことが話の中心ではない。息子に背かれながら、彼を待ち続け、遂に彼を迎えて喜ぶ父親こそ、喩え話の主役である。

2. 息子に甘い父親

 さて、そう考えてみると、この父親は息子に対して随分甘い人であることに気付かされる。この父親は我儘な次男の言うがままである。

「弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」(12~13節)。

 これは現代の日本の話ではない。2千年前のユダヤの話である。当時のユダヤでは、父親が家長として絶対的な権威を持っていた。子供の要求通りに財産を分与する父親などいなかった。勿論、律法には、長男が財産の3分の2、弟は残りの3分の1を相続することが定められている。しかし、父親は自分の死期が近づいてから、遺言として財産を子供達に渡すのが一般的であった。
 ところが、この父親は、次男の要望通り、即座に渡している。また、生前に財産が分与されたとしても、父親が生きている間に、それを子供が勝手に処分することは許されなかった。にもかかわらず、この次男は当然のようにそれを売り払い、「金に換えて」、出奔した。この喩えを聞いたユダヤ人は、この父親には威厳が全くないと思ったに違いない。
 ところが、イエス・キリストが、この父親に喩えているのは、驚くべきことに主なる神である。これでは、主なる神は人間の我儘を言うがままに聞く方ということになる。また、そういう人間に対して無力な方ということになる。
 主なる神は人間の悪い行いをお許しになられるのか。人間が間違ったことをしている時、ご自分の権威をもってそれを阻止されないのか。また、全知全能の神であれば、おかしなことをしている人間が最終的にどうなるか、全て御存知の筈である。その人が不幸になることを承知の上で、思い通りにさせるのか。主なる神は本当に人間を愛しているのか。
 これは、主なる神の存在を疑う多くの人が抱く疑問である。もし主なる神が本当におられるなら、どうしてこの世界には今も罪が蔓延っているのか。罪もない幼子が大人達の勝手な戦争によって殺されるのか。悪人が堂々とこの世でのさばり、真面目に地道に生きている人が報われないのか。主なる神はどうしてそれを黙認されるのか。主なる神が本当に存在し、人間と世界を愛しておられるのなら、こんな不条理がある筈がないと考える人は多い。
 ところが、この喩えにおいて、父親は次男の我儘を聞いて、彼に財産を分け、旅立つことを許している。主なる神は本当にそのような方なのか。

3. 息子を迎え入れる父親

 それだけではない。息子が落ちぶれ果てて家に帰って来ると、父親は一言の文句も言わずに、彼を迎え入れている。

「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。

 この時、息子は「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おうと決意していた(18~19節)。
 ところが、父親は息子に「雇い人の一人にしてください」まで言わせなかった。その代わりに、僕達に「急いでいちばん良い服を持ってきて、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう」と命じている(22~23節)。
 ここまで来ると、親馬鹿を通り越して、物事の正常な判断が出来ないのではないのかとさえ思われる。いや、親というのはそういうものだと言う人もいるかも知れない。しかし、本当に子供を思う親なら、暫く彼を謹慎させ、本当に悔い改めたかどうか確かめるのではないか。また裏切るかも知れないからである。実際、仕事から帰って来た長男は、父親の甘い対応に激しく抗議している。

「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出てきてなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる』」(29~30節)。

 この兄の言っていることは正論である。いくら次男が可愛いと言っても、限度というものがある筈である。

4. 「死んでいたのに生き返った」

 ところが、この父親は長男に対してこう言っている。

「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32節)。

 父親は「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った」と言って喜んでいる。しかし、次男が「死んでいた」というのは、単に彼が父親に背き、「放蕩の限りを尽くし」たということではない(13節)。それは結果である。彼が「死んでいた」のは、自分を子供として愛し、生かそうとしてくれている父親を父親として全く尊ばず、自分の願いを満たそうとしたからである。
 即ち、主なる神と人間の関係から言えば、人間が主なる神を主なる神として畏れることをせず、無視し続けてきたということである。聖書は、主なる神が私達一人一人を愛し、造られたと語っている。だから、イエス・キリストは主なる神のことを「天の父」と呼ばれた。ところが、人間は「自分の人生は自分で責任を負うので、私にはあなたは必要ない」とばかりに主なる神を無視してきた。それがこの世界の姿である。
 次男は放蕩の限りを尽くしたから心が腐り、身を持ち崩して死んだような人間になったのではない。彼は元々「死んでいた」。それが、父親のもとを去った時、明らかになったのである。そして、次男が望み通りのものを手に入れた先は、豚小屋だった。彼は豚の世話をしていたが、「豚の食べるいなご豆」さえ食べることが出来ないほどに落ちぶれた。つまり、豚以下の悲惨な境遇になってしまった。

5. 息子をずっと待っていた父親

 私は本日の宣教に「人生のUターン」という題を付けた。放蕩息子のUターンとは何だろうか。彼が自分の放蕩を後悔し、それを断ち切ったことだろうか。聖書はそうは言っていない。父親の愛に気付いていなかったのは、次男だけではないからである。
 長男はずっと道徳的な生活をしてきた。しかし、「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった」と父親に不満をぶつけている(29節)。それに対し、父親は長男に「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と答えている(31節)。長男はずっと父親の近くにいながら、父親を父親として愛していなかった。いや、父親が自分を深く愛してくれていることに気付いていなかった。その点では弟と全く同じである。
 大事なことは、私達を自分の子供として愛し、慈しんで下さる主なる神を心から信頼し、その愛に応えて生きているかどうかである。勿論、罪を犯してしまった時に反省し、償い、それを犯さないようにすることは大切である。しかし、聖書が教える〈悔い改め〉は、単なる反省ではない。
 次男は「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある」と悟って、父の家に向かって歩き出した(17節)。帰って来た次男はそこで何を見ただろうか。ただひたすらに彼を待っていた父親の姿である。父親は、次男を見つけると「憐れに思い」「まだ遠く離れていたのに」、自分の方から「走り寄って」いった(20節)。
 主なる神の愛を信じられない人には、主なる神は無力で、頼りにならない方に見えるかも知れない。しかし、主なる神は、私達をいつも愛し、待っておられる。そればかりか、私達の罪を贖い、私達をご自分の子供として迎えるために、御子イエス・キリストをこの世に送って下さった。イエス・キリストは、私達のために十字架で苦しみを受け、命さえ献げて下さった。御子イエス・キリストの十字架に示された主なる神の愛を信じ、生きている人にとって、主なる神は決して無力な方ではない。主なる神にこそ、真実の権威と力があり、主なる神こそ全てを支配しておられることを知っている。

6. 人生のUターン

 主なる神は人間を機械やロボットとして造られなかった。私達が自ら喜んで主なる神を主なる神として尊ぶことを待ち続けておられる。そして、私達が帰って来たら、ご自分の方から走り寄って、迎えて下さる。
 私達がなすべき「人生のUターン」とは、主なる神のもとに立ち帰ることである。その時、主なる神は、私達を愛で包み、私達の人生を変えて下さる。主なる神はあなたのことを待っておられる。あなたも主なる神の子供である。主なる神のもとには、溢れるばかりの喜びと祝福がある。私達はこの喜びと祝福に与るために毎週礼拝に招かれている。共に礼拝をお献げしよう。
 また、これはキリスト者である私達にとっても同じである。あなたは今この祝福に与っておられるだろうか。父親から離れていたのは次男だけではない。優等生の長男も、いや長男こそ父親を父親として愛し、尊んではいなかった。だから、彼には父親が弟を迎えた喜びが理解出来なかった。主なる神が求めておられるのは、私達自身である。私達が立ち帰り、ご自分と共にあることを、主なる神は待っておられる。