聖書日課 使徒言行録24章(新共同訳 新約pp.262-263)
エルサレムで逮捕されたパウロは、カイサリアに送られ、総督フェリクスによる裁判にかけられることになった。逮捕や裁判という試練を通して、福音が当時の世界の支配者の前で直接語り告げられることになっていったのである。これもまた、主なる神の不思議な御計画と言うことが出来る。人間の目にはマイナスにしか見えない出来事を通しても、主なる神の御心は進められており、主の御業は成就していく。
ところで、このフェリクスという人物は、「この道についてかなり詳しく知っていた」(22節)と記されている。それは、彼の妻ドルシラがユダヤ人であったことによるかも知れない(24節)。後日フェリクスは、パウロを呼び出し、妻と共に「キリスト・イエスへの信仰について話を聞い」ている(24節)。彼は、主なる神への求道心、或いは福音に対する何らかの関心を持っていたものと思われる。
ところが、聖書は続いてこう記している。
「しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、『今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする』と言った」(25節)。
フェリクスの恐れは、主なる神とその審判に対する恐れではなく、人に対する恐れであった。彼は、福音を信じることで自分の立場を失うことを恐れたのである。それは、主なる神に従う決心をすることの出来ない優柔不断から来る恐れであったとも言える。
その一方で、フェリクスには「パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた」(26節)と記されている。更に、フェリクスは「ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた」(27節)。
主なる神よりも人の目を恐れ、主なる神に聞き従うよりも金を追い求め、主なる神に喜ばれるよりも人に気に入られようとする。これらのことが、フェリクスを福音による救いから遠ざけてしまった。私達もしっかり心すべき問題ではないか。イエス・キリストは、弟子達にこう言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコによる福音書8章34~35節)。
西原新生バプテスト教会
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