聖書日課 使徒言行録10章(新共同訳 新約pp.232-234)
「しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません』。すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない』」(14~15節)。
これは、ペトロが見た幻における主なる神とのやり取りの一場面である。主なる神は、この幻を通して、それまでユダヤ人が頑なに交わりを避けてきた異邦人にも、福音を宣べ伝えるべきことを示された。
確かに、イエス・キリストは、福音が「地の果てに至るまで」(1章8節)宣べ伝えられると言われた。しかし、生粋のユダヤ人であるペトロや他の弟子達の中には、相変わらず異邦人に対する偏見と軽蔑の思いが心の奥深くに残っていた。それ故、主なる神は、祈りの中で幻を見せ、ペトロの心の中にある障壁を取り除く必要があった。
ユダヤ人は、自分達の清さを守るために、異邦人との交わりを避けてきた。しかし今、ペトロは、イエス・キリストの使徒とされている。使徒とは〈遣わされた者〉という意味である。自分を守るために人を避けるのではなく、人々を救いに導くために出て行く者、それが使徒である。
主なる神がこの幻を見せられた丁度その時、信仰深い異邦人コルネリウスからの使者がやって来た(17~22節)。ペトロは、招きに応じて、コルネリウスの家に行き、異邦人に福音を宣べ伝えた。すると、コルネリウス達の上に聖霊が降り、彼らは異言を話し、主なる神を讃美した(44~46節)。
この時、ペトロは言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34~35節)。
こうして、異邦人に対する宣教の扉が開かれていった。そこには、祈りの中で働かれる聖霊の導きがあった。
私達の中にも、乗り越えなければならない様々な障害があるのではないか。恐れ、偏見、軽蔑、無理解、無知、無関心…このような障害が、私達と人々の間に立ちはだかり、主なる神の救いと祝福の流れを止めてしまっていることはないだろうか。
私達は、祈りの中で主なる神と出会い、主なる神の導きと示しをいただく必要がある。そして、あらゆる偏見や障害を乗り越えて、全ての人が主なる神の救いと祝福に与る姿を、幻の中ではっきり見せていただきたいと願う。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
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