聖書日課 マルコによる福音書14章(新共同訳 新約pp.90-94)
「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた」(3~5節)
ユダヤの社会では、香油を頭に注ぐという行為は、客人へのもてなしとして珍しいことではなかった。しかし、この女性がしたように、三百デナリオン(今の金額で数百万円)もの高価な香油をいっぺんに注ぐのは、決して尋常なことではなかった。
そう考えると、そこに居合わせた何人かの人達が、彼女の行為を無駄遣いと思い、憤慨したのも分からないことではない。まして、「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」などという尤もらしい理由を付けられては、尚更のことである。
しかし、イエス・キリストは、彼女の行為を決してそのようには受けとめなかった。
「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(6~9節)
十字架を目の前にしたイエス・キリストにとって、この女性の行為は、タイミング、払った犠牲の大きさ、そして埋葬の準備という意味において、その場に相応しい行為だった。また、それは、この女性が、いかにイエス・キリストを愛し、慕い、尊敬していたかをも物語っていた。
とはいえ、どうして弟子達にはそれが分からず、この女性にはそれが分かったのだろうか。ヨハネによる福音書によると、この女性は、イエス・キリストの足もとで主が語られる教えにひたすら耳を傾けていた、あのマリアであったと記されている(ヨハネによる福音書12章3節)。つまり、この違いは、ひたすら主の御声に耳を傾けることから生まれてきたのではないか。私達がなすべきことは全て、主の御声に耳を傾けることから始まる。