ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

主日礼拝祈祷 2024年4月7日

主日礼拝祈祷 2024年4月7日

 恵み深い天のお父様、御子イエス・キリストの十字架と甦りを覚え、主の愛をたたえて心からほめ歌います。
 主よ、7日の旅路を守られ、再び御前に召し集めていただいた幸いを感謝致します。私達は、いつも喜びと感謝のうちに生きたいと願っています。しかし、悲しみ、落胆、不安、怒りなどを心に抱きながら御前に集っています。あなたは私達の全てをご存知です。主よ、私達を憐れんで下さい。
 復活の主イエス・キリストは、御自分を慕う者のもとに来て、「恐れることはない」と言われました(マタイによる福音書28章10節)。「あなたがたに平和があるように」とも言われました(ヨハネによる福音書20章19節)。御子イエス・キリストの励ましと祝福は、私達の希望です。御言葉によって私達を耕し、種を蒔き、成長させて下さい。
 御子イエス・キリストは、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13章34節)、「仕えられるより仕える者になりなさい」と教えて下さいました。私達がこの大切な掟を守れない時、私達を顧み、私達が主の愛の御手にとらえていただいていることを想い起こさせて下さい。仲間のために祈り、御言葉を行う群れとして、教会を成長させて下さい。そして、御心に適うように私達を用い、この地に福音を宣べ伝えさせて下さい。
 お一人お一人の心にある祈りと合わせて、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書日課 ホセア書11章

聖書日課 ホセア書11章(新共同訳 旧約pp.1416-1417)

 これまでイスラエルの罪と反逆に対する厳しい裁きを語ってきた主なる神が、本章では一変して、「エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか」と、イスラエルへの憐れみの思いを語っている(8節)。

「わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」(9節)。

「一体どちらなのか?」と思う人もいるかも知れない。しかし、ここに主なる神の愛の真実が現れている。主なる神はこう言われている。

「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」(1節)。

 主なる神はイスラエルを御自分の「子」とされた。だからこそ、彼らが罪に陥れば厳しく叱り、そのまま放っておくことを決してなさらなかった。しかし、同時に主なる神は、彼らを見捨てることも決してなさらなかった。主なる神は彼らが立ち直ることをどこまでも信じておられた。

 これが本当の親の愛というものではないだろうか。主なる神はイスラエルを御自分の「子」として愛しておられた。だからこそ、裁きの後には、彼らが再び約束の地に帰って来ることを約束された。

 今、主なる神は、イエス・キリストを信じる者全てを御自分の子として受け入れて下さっている(ヨハネによる福音書1章12節)。主なる神は父として、私達を真実に真剣に愛して下さっている。だからこそ、私達に罪があればそれを指摘し、厳しく叱る。しかし、主なる神は私達を決して見捨てることはない。私達が、罪を悔い改めて主なる神に立ち帰り、再び豊かな恵みと祝福に満ち溢れて生きるように、誰よりも強く深く願いつつ、助けて下さる。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と恵みの中に置いて、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、もしあなたが罪だけに目を留められる方でしたら、私達はとっくに滅んでいたことでしょう。しかし、あなたは溢れる恵みと慈しみによって私達を見て下さっています。

 私達を性格づけていた罪を、あなたは十字架の血潮で打ち砕き、罪も汚れもない者として私達を御前に引き寄せて下さいました。

 私達の思いも及ばぬあなたの愛。もう一度、この愛に満たして下さい。この肉の愛、肉の思いを打ち砕き、あなたの愛によって隣人を愛することが出来る者になれますよう、私を変えて下さい。

 主よ、罪を悔います。肉の愛を悔います。

 あなただけが、あなたの愛だけが全てとなって下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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聖書日課 ホセア書10章

聖書日課 ホセア書10章(新共同訳 旧約pp.1414-1416)

 10章はイスラエルに対する裁きの預言である。イスラエルは豊かになるにつれて、見た目もどんどん華美になった。しかし、その心は偶像に向けられ、主なる神に対して偽りの誓いを立てていた(1節)。それ故、主なる神は彼らの偽りの罪を罰し、厳しい裁きを下そうとしていた(2節)。

 勿論、主なる神は初めからイスラエルを裁こうとしていたわけではない。それどころか、主なる神はイスラエルを深く愛し、彼らが豊かな実を結ぶことを期待しておられた。

「エフライムは飼い馴らされた雌の子牛/わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ。わたしはその美しい首の傍らに来た。エフライムに働く支度をさせよう。ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く。恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように」(11~12節)。

 このように、主なる神は、イスラエルが主を求め、主の「恵み」に溢れ、「愛の実り」をもって世界中を満たすことを期待しておられた。神の民イスラエルはそのためにこそ選ばれたのだから。しかし、イスラエルはこの主なる神の期待を裏切った。

「ところがお前たちは悪を耕し/不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ」(13節)。

 主なる神の御前に謙ろうとせず、「自分の力と勇士の数を頼り」にする者は、やがて必ず「悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べ」ることになる。イスラエルは、主なる神に拠り頼み、主なる神に従って生きようとせず、自分達の力を誇り、自分達の好きなように歩んだ。その意味で、まさに彼らは「伸びほうだいのぶどうの木」であった(1節)。何の手入れもされないために、その姿も結ぶ実も不恰好で、真の豊かさに欠けたものでしかなかった。

 さて、私達はどうだろうか。偽りの繁栄や上辺だけの美しさに浮かれていることはないだろうか。私達も、主なる神の御前に謙り、主なる神の御声に聞き従うことがなければ、イスラエルと同じ滅びの道を歩むことになる。だからこそ、イスラエルの民の教訓を決して忘れてはならない。

祈り
 天のお父様、尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と恵みの中に置いて御前に引き寄せて下さったことを、心から感謝致します。

 主よ、この荒れ果てた心をあなたに差し出します。この心を整え、清くすることが出来るのはあなただけです。主よ、罪を悔います。汚れや憤り、高慢、ごまかし、私もこれらを消してしまいたいと願っています。どうかあなたの手を伸ばして下さい。

 そして、あなたの御手によって整えられ、豊かな実を結ぶ者となることが出来ますよう、お導き下さい。

 感謝して、尊い御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 ホセア書9章

聖書日課 ホセア書9章(新共同訳 旧約pp.1413-1414)

 預言者ホセアが、イスラエルに滅亡の危機が迫っていると告げた時、人々は彼を嘲笑い、「敵意」を剥き出しにした(7~8節)。それもそのはず、当時のイスラエルは、目に見えるところでは、繁栄と豊かさを保っていたからである。

 しかし、預言者は、目に見える現状から判断して語る者ではない。勿論、自分の思いつきや想像から語るのでもない。預言とは、主なる神から預かった言葉のことであり、預言者は、主なる神から預かった言葉を人々に語る者であった。そのため、多くの預言者は、目に見える現実しか見ていない世の人々から批判され、馬鹿にされ、憎まれ、殺されることさえあった。

 ホセアからおよそ100年後の南ユダ王国預言者として立てられたエレミヤは、主なる神の言葉を語る故に受ける苦しみについて、次のように告白している。

「主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません」(エレミヤ書20章7~8節)。

 しかし、エレミヤは続けてこう祈っている。

「しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき/勝つことを得ず、成功することなく/甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない/とこしえの恥辱である。万軍の主よ/正義をもって人のはらわたと心を究め/見抜かれる方よ。わたしに見させてください/あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします」(同11~12節)。

 主が共におられるという平安、全能の神に全てを委ねてお任せする信仰、それが、エレミヤに主なる神の言葉を語り続ける勇気と力を湧き上がらせた。ホセアも同じだったに違いない。預言者はわが神と共にある」とあるように(8節)、彼もまた、主の臨在に包まれ、主の御力に拠り頼むことで、初めて預言者としての使命を全うすることが出来た。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と恵みの中に握り、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、今日も告白させて下さい。あなたこそが、真理でいらっしゃいます。

 愚かな私、すぐにあなたから目を離してしまう者、真理を見失ってしまう者を、あなたは握って下さいました。

 どこに向かって行けば良いのか分からない、完全に迷子になってしまった私を、あなたは背負って下さいます。

 今日もあなたを告白しつつ、あなたの背中で安心して過ごしたいと思います。

 あなたこそ私の主です。あなたに信頼する者は、幸いです。

 感謝して、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 ホセア書8章

聖書日課 ホセア書8章(新共同訳 旧約pp.1411-1412)

 本章には、イスラエルに滅亡の危機が迫っているという警告が記されている。それは、彼らが主なる神との契約を破り」、主なる神の「律法に背いた」ためであると、はっきり宣告されている(1節)。

 一体彼らはどのように主なる神に背いたのだろうか?

「わたしに向かって彼らは叫ぶ。『わが神よ/我々はあなたに従っています』と。しかし、イスラエルは恵みを退けた。敵に追われるがよい。彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない。彼らは高官たちを立てた。しかし、わたしは関知しない。彼らは金銀で偶像を造ったが/それらは打ち壊される」(2~4節)。

 このように、イスラエルの人々は、言葉では主に従うと言いながら、実際は主なる神の恵みを退けて、自分の考え、自分のやり方で、勝手に「王を立て」、勝手に国を支配し、挙句の果てには、「偶像を造っ」て拝むようなことまでしていた。

「エフライムは罪を償う祭壇を増やした。しかし、それは罪を犯す祭壇となった。わたしは多くの戒めを書き与えた。しかし、彼らはそれを無縁のものと見なした」(11~12節)。

 彼らは宗教に熱心であった。しかし、それもまた自分の欲望を満たすための道具であり、主なる神が喜ばれる信仰のあり方とは、全く懸け離れたものでしかなかった。その結果、イスラエルアッシリアによって滅ぼされることになってしまった。

 信仰は、形式や見た目ではなく、主なる神との真実な交わりである。それは、私達が主の御声に耳を傾け、従う時に結ばれる絆である。どんなに見た目や形式が整っていても、主なる神との真の交わりを忘れて自分勝手な道を歩むなら、やがて主なる神の栄光と祝福は消え去り、混乱と絶望と滅びが必ず訪れる。

イスラエルはその造り主を忘れた。彼らは宮殿を建て連ねた。ユダも要塞の町を増し加えたが/わたしはその町々に火を送り/火は城郭を焼き尽くす」(14節)。

 この間違いを2度と繰り返さないために、私達は、主イエス・キリストにしっかり繋がって、御声に聞き従い続けていこう。

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聖書日課 ホセア書7章

聖書日課 ホセア書7章(新共同訳 旧約pp.1410-1411)

 イスラエルの滅亡は、彼らが主なる神から離れ、主の教えに逆らい続けたことに原因があった(13節)。主なる神は、そのような彼らのもとに多くの預言者を遣わし、何度も何度も警告を与えた。時には災いを起こしてでも、彼らの目を開かせようとされた。

 しかし、主なる神がどんなにイスラエルを救おうとしても、彼らは主なる神の警告に耳を傾けようとはしなかった。

「彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない。寝床の上で泣き叫び/穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが/わたしには背を向けている」(14節)。

 これはイスラエルが熱心に偶像を礼拝する様子を言っているのだろうと思われる。彼らは、災いに遭っても、自分達の罪を悔い改めようとせず、ますます偶像を拝むようになっていったのである。

 しかし、このようなことはイスラエルだけの問題ではなく、私達自身も陥り易いことではないだろうか。災いや問題が起こった時、私達は、そこから謙虚に学ぼうとするよりも、嘆いたり不平を言ってばかりいるということはないだろうか。「どうせ自分は駄目なんだ」と諦めたり、自己憐憫に陥ることはないだろうか。その結果、いつまでも同じ間違いを繰り返してしまう。このようなことは一体どこに原因があるのだろうか。

イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。彼らは神なる主に帰らず/これらすべてのことがあっても/主を尋ね求めようとしない」(10節)。

 このように、問題の根源は高慢にあると聖書ははっきり教えている。高慢がイスラエルを主なる神から遠ざけ、主なる神の御声を聞こえなくしてしまっていた。それ故、問題や災いに遭っても、彼らは主なる神に立ち帰るのではなく、「エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行」った(11節)。

 問題や災いに出会った時、何よりも大切なことは、謙遜になってそこから学ぼうとすることである。そして、主なる神の御前に謙り、自らを反省し、主の御心に聞き従うことである。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と慈しみで包んで、御前に引き出して下さったことを、心から感謝致します。

 主よ、私はあなたに出会い、聖書によってあなたの御心を知るようになって、自分の心の中の悪と罪を深く知るようになりました。自分で自分の悪を持て余す時、あなたが、このような私を待って下さっています。

 あなたは私のかかりつけの名医です。あなたがいつもそこにいて迎えて下さるから、私は、罪人のまま、あなたのところに行くことができます。

 主よ、今日もあなたのところに参ります。あなたの前に隠すようなことは何もありません。あなたは全てをご存知です。全てを御覧下さい。そして、悪いところを取り除き、癒して下さい。

 今日も、あなたの子供達の上にあなたの恵みを注ぎ、癒して下さい。安心してあなたの御許に行くことが出来るよう、お導き下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 ホセア書6章

聖書日課 ホセア書6章(新共同訳 旧約pp.1409-1410)

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる」(1~3節)。

 これは神殿の祭儀で祭司達が歌った悔い改めの歌であろうと言われている。これだけ読むと、とても信仰深い歌であり、祈りであるように思われる。

 しかし、これは真実な悔い改めの歌ではなかった。前章でも見たように、彼らの中には「淫行の霊」があった(5章4節)。そのため、形式的には主なる神を拝んでいても、同時にバアルにも心を寄せ、これも拝んでいた。勿論、主なる神は、そのような彼らの〈本音〉を全てご存知であった。

「エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを/預言者たちによって切り倒し/わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(4~6節)。

 どれほど沢山の「いけにえ」を献げても、そこに主なる神を慕い求める真実な心がなければ、主なる神は決して喜ばれない。どんなに立派な宗教儀式を行っても、主なる神の御言葉に真に聞き従うことがなければ、それは無意味な形式に過ぎない。そこに主なる神の臨在はなく、喜びも祝福も決して期待することは出来ない。何故なら、主なる神が求めておられるのは、献げ物ではなく信頼する心であり、儀式ではなく真実な愛の交わりだからである。

 この時イスラエルの人々が第一になすべきことは、真の悔い改めであった。彼らは、何よりもまず、自分達の心の中から偶像を取り除ける必要があった。そして、主の御前にひれ伏し、主にのみ聞き従って生きることが必要だった。

 私達の信仰はどうだろうか。私達の礼拝は単なる儀式や形式に陥っていないだろうか。私達は、真に主なる神を慕い求め、主なる神の御声に聞き従って生きているだろうか。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの温かな愛に包まれ、御前に祈りを与えていただいたことを感謝致します。

 主よ、あなたはこのような私の心を求めておられるのですか。自分の罪を持て余し、どうすることも出来ないこの私を、あなたは探し出して下さいました。

 形式的にあなたを礼拝するのではなく、礼拝の中で、本当にあなたに出会いたいと思います。あなたに触れていただき、あなたの聖さ、あなたの喜び、あなたの愛、あなたの命を注がれ、私も、謙遜を学び、隣人を愛し、隣人と支え合いながら生きる者となることが出来ますように。

 感謝して尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 ホセア書5章

聖書日課 ホセア書5章(新共同訳 旧約pp.1408-1409)

「エフライム」は北王国イスラエルを代表する部族で、ここでは北王国を指している。「エフライムは淫行にふけり」は(3節)、彼らがバアル礼拝を取り入れていたことを意味しているが、バアル神殿には神殿娼婦がいて、肉体的な意味での「淫行」も同時に行われていた。

 それでは、彼らは主なる神を全く捨て去っていたかというと、そうではなかった。彼らはバアルを礼拝する一方で、主なる神にも献げ物をささげていた。

「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが/見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。彼らは主を裏切り/異国人の子らを産んだ。それゆえ、新月の祭りが/彼らをも、その所有をも食い尽くす」(6~7節)。

 要するに、彼らは二股をかけていたのである。そしてそれは、主なる神に対する裏切りそのものであった。このことは、昔から八百万の神々を拝んできた日本人には〈不寛容〉〈偏狭〉に思われるかも知れない。しかし、恋愛や結婚における〈二股〉が〈裏切り〉であるのは誰でも分かるだろう。聖書が主なる神とイスラエル(教会)の関係を夫妻に喩えて教えているのは、そのためでもある。

 イスラエルの問題は、まさにこの点にあった。彼らは、主なる神の民でありながら、バアルにも心を寄せ、バアルを拝んでいた。それ故、たとえ彼らが形式的に献げ物を携えて主を尋ね求めても、主なる神を見出すことは出来なかった。「淫行の霊が彼らの中にあり/主を知りえないから」である(4節)。

 どんなに聖書に精通し、どんなに善行に励んでも、私達の心が主なる神以外の何ものかに寄せられていたなら、私達は真の意味で主なる神を知ることも、出会うことも出来ない。主イエス・キリストこそこの世で唯一にして真の救い主であると信じ、この御方にのみ聞き従って生きる決心をした人だけが、真に主なる神に出会い、真に主なる神を知ることが出来る。

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と恵みの中に置いて御前に引き出し、祈りを与えて下さることを心から感謝致します。

 主よ、あなたを遠くに感じる時があります。罪が私とあなたを隔てているのです。そのような中でなお、自分の罪にしがみつこうとするこの高慢をお赦し下さい。

 苦しみの中からあなたに帰る道を歩き始めることが出来るよう助けて下さい。泣きながらあなたに帰る道を歩む私達を支えて下さい。

 罪の姿のまま帰る私達を、主よ、憐れんで下さい。

 今日、あなたに帰る道を歩き始めることが出来ますように。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 ホセア書4章

聖書日課 ホセア書4章(新共同訳 旧約pp.1406-1408)

「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫」「流血」(2節)、「渇き」、衰弱、そして「野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される」ような自然破壊(3節)。ここだけ読んでいると、現代社会のことが言われているような気がしてこないだろうか? しかし、これは今から2700年以上も前のイスラエルの状況だった。どんなに科学が発展しても、人間は相変わらず同じ問題を抱えていると言えるかもしれない。そしてそれは、人間の本質が殆ど変わっていないということではないだろうか。

 では、その問題の本質とは何か? こう言われている。

「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも/神を知ることもないからだ」(1節)。

 昔も今も、人間の問題の根本は、主なる神を知らないこと、知ろうともしないことにあると聖書は教える。その結果、誠実さも慈しみもなく、欺き、殺人、盗み、姦淫、流血などのあらゆる悪が人生にも社会にも蔓延し、「地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される」ようになってしまう(3節)。

 にもかかわらず、私達は聖書に耳を傾けるより、寧ろ科学や学問、法律や政治、お金や権力、或いは他の神々や宗教によって問題の解決を図ろうとしてきたのではないだろうか。勿論、科学や学問や政治はどうでもいいというわけではない。しかし、それらは全て外側を取り扱うものであり、主なる神を知ることによって自分自身が変えられていくこととは、全く違うものである。

 主なる神が求めておられるのは、私達自身であり、私達が主なる神を知ることによって、罪と汚れが清められ、内側から新しくされていくことである。そうして初めて、呪いや欺き、殺人や盗み、姦淫や流血などの問題が解決されていく。

 私達は、聖書が啓示する主なる神とその教えに、どれほど真剣に目を向け、耳を傾けているだろうか。

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聖書日課 ホセア書3章

聖書日課 ホセア書3章(新共同訳 旧約p.1406)

「夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」(1節)。主なる神は何と無茶なことを言われるのかと思うかも知れない。口で言うのは簡単だが、実際にはこんなに苦しく痛ましいことはないだろう。しかし、この言葉には続きがあることを忘れてはならない。

イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように」(1節)。

 主なる神ご自身が、自分を捨てて他の神々に走ったイスラエルの人々をなお愛された。その愛を伝えるために、主なる神はホセアにそのように命じられたのである。

 ホセアは、男から男へと渡り歩いた末に、ボロボロになって捨てられ、奴隷として売られてしまっていた妻ゴメルを買い取って、再び妻として迎え入れた(2節)。そして、彼女に「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる」と告げた(3節)。

 何故ホセアはここまで真実で誠実な愛をゴメルに向けることが出来たのだろうか。それは、彼が主なる神の真実で誠実な愛を心から信じていたからに違いない。そうでなければ、とても出来ることではない。

 ホセアが身をもって示した愛は、私達のために御子イエス・キリストを十字架にかけられた父なる神の愛だった。主なる神は、ホセアの妻ゴメルのように主なる神に逆らい、罪の奴隷となっていた私達をなお愛して、御子イエス・キリストの血によって贖って下さった。それ故、聖書はこう勧めている。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)。

 あなたはこの主なる神の真実で誠実な愛にどのように応えるだろうか。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな温かい御手の中に握り、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、あなたは、このような者のために十字架にかかり、血を流して下さいました。私にはそのような価値があったのでしょうか。あなたには、私を贖わなければならない理由があったのでしょうか。

 私には、自分にそのような価値があるとは思えません。そのような理由があるとは思えません。

 それなのに、何故あなたはそこまで愛して下さったのですか。何故あなたの愛はそれほどまでに深いのですか。大きいのですか。

 あなたの御許に帰った時、教えていただきたいと思います。

 主よ、ただ感謝します。御名をほめたたえます。

 尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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