ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 エゼキエル書28章

聖書日課 エゼキエル書28章(新共同訳 旧約pp.1340-1342)

 本章に、ティルスの王が、高慢になって「わたしは神だ」と言ったことが記されている。普通の感覚からすれば、「わたしは神だ」などと言い出したら、気が変になったと思われても不思議ではない。しかし、自分を神と思うかどうかは別として、高慢とは、自分を神とすることと同じである。

「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。「わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう」と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった』」(1~5節)。

 エデンの園で、蛇の誘惑に陥ったエバとアダムが、主なる神が「決して食べてはならない」と警告していた「善悪の知識の木」の果実を取って食べた時、彼らは自分達が「神のように」「なること」を望んだ(創世記3章)。

 彼らの行動の本質は、主なる神の警告に逆らって、事の善悪を自分で決めようとするものであった。それは自分を主なる神の位置に置く行為であり、そこに人間の罪の本質=高慢の始まりがある。主なる神に造られた者が神になろうとすること、そこに高慢の本質がある。それは、主なる神の導きに聞き従おうとしないところから始まる悲劇の道である。

「お前の心は美しさのゆえに高慢となり/栄華のゆえに知恵を堕落させた。わたしはお前を地の上に投げ落とし/王たちの前で見せ物とした」(17節)。

 ティルスは、「美し」く、「栄華」に溢れたところだった。「お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた」とさえ言われている(13節)。それほど主なる神に祝福されていた彼らが、「地の上に投げ落と」され、「見せ物」とされてしまう。それが高慢という罪の恐ろしさである。

 主なる神に造られた者として生きること、私達の真の幸福はそこにある。主の御前に謙り、主の愛と恵みに包まれて歩むこと、それが主なる神に造られた者の本来あるべき姿である。そこから決して離れてはならない。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの温かい御手の中に握り、御前に祈りを与えて下さることを心から感謝致します。

 主よ、あなたは、私がこの生涯で知らなければならない全てとなって下さいました。あなたに目を向け、あなたが握り、背負って下さることを知る時、私の中の全てがあなたに満たされます。主よ、あなたは私にとっての神の知恵、神の義、聖め、贖いとなって下さいました。

 主よ、いよいよあなたご自身によって満たして下さい。あなたに満たされ、あなたに導かれ、あなたに背負われる生涯の一歩を、今日も進めることが出来ますように。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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