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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 申命記32章

聖書日課 申命記32章(新共同訳 旧約pp.332-336)

 歌には力がある。特に御言葉を歌にして歌うのは恵み深いことである。私も、御言葉を歌詞とする讃美歌を数曲覚えている。不思議と御言葉を覚えて、いつの間にか心に残っていった。

 32章でモーセは、イスラエルが主なる神に背を向け、罪の暗闇の中で悶え苦しむ時に備えて、この歌を暗唱するよう教えている。そのような時に、この歌が主なる神の御言葉を思い起こさせてくれることになる。

「愚かで知恵のない民よ/これが主に向かって報いることか。彼は造り主なる父/あなたを造り、堅く立てられた方」(6節)。

 主なる神に背を向けるのは「愚かで知恵のない」ことである。これほどに愛して下さっている主なる神に対し、背信をもって「報いる」者は、「愚かで知恵のない民」である。

 では、主なる神はどのような御方だろうか。モーセは次のように歌っている。

「主は岩、その御業は完全で/その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく/正しくてまっすぐな方」(4節)。

 この御方が万物を創造し、私達も創造した「造り主」である。しかも、主なる神は「御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)。偶然ではなく、意図をもって創られた故に、主なる神は私達を「堅く立てられた」

 そればかりか、モーセは主なる神を「父」と表現している。これは旧約では珍しいことである。新約に至って、御子イエス・キリストが来られ、主なる神が本当の「父」であることを啓示されるまでは、人々は主なる神を「父」と呼ぶことがなかった。皆、主なる神を恐れながら、厳しい主人に仕える僕のように従っていた。

 だから、主なる神の御怒りが臨むと、「自分は神から見離された。神から呪われている」と感じたかも知れない。しかし、主なる神は私達の「父」である。私を生み、私を創り、私を「堅く立てられた」私の「父」である。

「父」であるなら、主なる神は決して私をお見捨てにならない。「父」だからこそ、どんなに主なる神がお怒りになったとしても、そこに「父」の愛を感じることが出来る。

 試練の時、主なる神が「父」であることを思い起こそう。私達を「子として」「鍛えられ」「父」であることを思い起こそう(ヘブライ人への手紙12章7節)。32章の歌をイスラエルの民が歌って思い起こしたように。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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