第90編は〈無常〉が主題の詩である。仏教の無常観と一脈通じるところがあるが、明らかに違うのは、無常をもたらした原因が明確に語られていることである。
「あなたは人を塵に返し/『人の子よ、帰れ』と仰せになります。千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます」(3~6節)。
「あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます」(8~9節)。
この世が〈無常〉の世界となり、人が死ぬべき存在となったのは、「罪」が原因であり、人の「罪」に対する主なる神の「御怒り」の故であると聖書ははっきり教えている。
人が皆死ぬべき存在であることは誰もが知っているだろう。しかし、死と向き合い、どのように死を受けとめるかを真剣に考え、祈り、探求する人は、少ないのではないか。「生きているうちが花」と、私達は今を生きることで頭が一杯で、死と向き合う余裕も、勇気も、謙遜さもなくしてしまっているのではないか。
しかし、真に〈いかに生きるか〉を問うならば、〈死をどう受けとめるか〉という問いにどうしてもぶつからざるを得ない。それ故、この詩の作者も、こう祈っている。
「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(12節)。
人生には終わりがあることを覚え、「生涯の日を正しく数える」こと、それが「知恵ある心」であると言われている。それは、罪の故に無常となった人生をもう一度確かなものにして下さる主なる神を畏れ、敬い、信頼する心を得ることである。
「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ/生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」(13~14節)。
西原新生バプテスト教会
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